世界遺産大峯奥駈道を守る人々


      私財を投じて奥駈道を守る人々にお会いしました



今まで2年余りも、「世界遺産大峯奥駆道」を歩いてきて、何箇所かは道が崩れたり(明星が岳南側)、

突然なくなったり(地蔵岳東直下)したところはありましたが、おおむね楽しく、かつ気持ちよく歩けました。

「さすがは千年以上の歴史のある伝統の道、長い間かかってきちんとつくられてきたのだなあ」などと、

のんきな事を考えながら歩いていました。

ところがそれが大間違いだったことが、南奥駆を歩き出してから、次第に分かるようになりました。

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下の図は大峯奥駆道の180キロに及ぶ全図です。

吉野川の「柳の渡し」から「熊野本宮大社」まで大変険しい尾根道です。

まず北半分の北奥駆が柳の渡しから太古の辻までです。

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次に南半分 つまり前鬼小中坊から登り奥駆と出会う

「太古の辻」から南側を「南奥駆」もしくは「胎蔵界奥駆」と呼びます。

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修験道根本道場のひとつである、京都聖護院葉衣会の故前田勇一翁

が、南奥駆の荒廃した様子に心を痛め 「奥駆葉衣会」を結成し、私財を

なげうって「持経宿山小屋」を建設したのは今から30年以上前です。

その持経宿山小屋を拠点に、道の整備が奥駆葉衣会の前田翁を中心

として始められました。

当時の南奥駆道は、一面の熊笹や雑木に覆われ、とても歩けるような状態で

はなかったのを、奥駆葉衣会全員で、笹刈りや階段付けを根気

良く続けた結果、南奥駆道は次第に整備されました。

しかし前田翁は不治の病にかかり、入退院を繰り返されました。

前田翁は自分亡き後の南奥駆道の整備を当時親交のあった「新宮山彦

ぐるーぷ」の玉岡会長に、病室から毎日のように手紙で切々と訴えられた

ということです。 

翁の意思を引き継いだ「新宮やまびこグループ」の玉岡会長はじめグループ

諸氏の血のにじむような努力で 「平治宿山小屋」 続いて 「行仙宿山小

屋」が建設され、南奥駆道も、道として次第に整備されてきました。

(※以上の話は、先日行仙宿山小屋で偶然お会いした「新宮山彦グループ」の方に、

私が直接お聞きしたお話です。)

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「持経宿山小屋」「平治の宿山小屋」「行仙宿山小屋」の位置図です。

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持経の宿山小屋です。南奥駆整備の拠点として、前田勇一翁が私財を投じて

最初に建設した小屋です。道の整備の拠点となりました。

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小屋に隣接した不動堂で、この中に前田翁の写真と、その説明文が掲げられています。

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熱心に祈る行者姿の前田翁です。

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「新宮山彦グループ」による、前田翁をたたえる文章です。

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続いて建てられた「行仙宿」山小屋です。「新宮山彦ぐるーぷ」の人たちは

聖護院、三井寺、大峯山寺、金峯山寺などの修験道根本道場に協力してもら

い、募金活動を続け、かつ私財を投入して「行仙宿山小屋」続いて「平治の宿

山小屋」を建設しました。

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きれいに片付けられた「行仙宿小屋」の内部です。

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先日ここの小屋の前を通って、雨の奥駆を 笠捨て山から地蔵岳まで往復した帰り道、

この小屋から一人の女性が出てこられました。

お話を聞くと「下の林道に停めた車から、建設工事用の砂利を運んでいるとこ

ろです。もうあと一回でお終いにします」とおっしゃいました。

やがてご主人がこられ、詳しくお話を聞く事ができました。

前田翁の意思を引き継ぎ、南奥駆の整備を引き継いだものの、道は熊笹と

雑木に覆われて、とても何処が道か分からない状態で、グループ全員で 

それこそ来る日も来る日も、道作りに明け暮れたそうです。

聖護院葉衣会、奥駆葉衣会 ともに高齢化が進み いまや有名無実。

「山彦グループも 玉岡会長が今年85歳、この先どうなることでしょうか」

と寂しく笑ってらっしゃいました。それでも最近は「自分の都合のよい時だけで

もお手伝いします」という方も、何人か現れて 一緒に道作りをしています。」

だそうです。

あの前財務大臣「塩爺」も以前砂利を運びに来られたそうです。

私にも「どうですか、たまには砂利を運んだり、笹刈りをしにいらっしゃいませ

んか?」とおっしゃいましたが、私は返答に困り

「普段は家の近くの 岩湧山の登山道の整備をしているので、なかなか時間

がとられなくて」 と言おうとしましたが、彼らのやってきた事と比べると

問題にならないくらいちっぽけな事だと思い、とても言い出せませんでした。

「次回、奥駆道でお会いしたときには、ぜひ砂利を運ばせていただきます」

と言って その場を後にしました。

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「新宮山彦ぐるーぷ」で建てた 「平治の宿山小屋」です。

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平治の宿には、あの西行も訪れて唄をのこしています。

「こずえ洩る 月もあはれを 思ふべし

     光に 具して 露のこぼるる」と書いてありました。

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平治の宿山小屋ができてから、京都大学の 今西錦司先生も訪れています。

記念の植樹に桜が植わっていました。

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平治の宿山小屋の入り口です。

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内部はきれいに片付けられていました。

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私財を投じて南奥崖を整備した人をまたしても知りました。

        2009年12月15日南奥崖地蔵岳にて


私財を投じて、大嶺奥駆道の整備に尽くした人をまたしても、知りました。

12月15日に葛川口から、古屋の宿へ出て、香精山を経て地蔵岳へ行きました。

今年の7月5日に行仙宿から笠捨て山を経て、地蔵岳へ向かったときに 地蔵岳

直下で道が分からずに、引き返したことがあり、道を整備しようと思ったのです。

地蔵岳周辺には、既に ステンレスの鎖が数百メートルにわたり フィックスして

ありました。そしてそこには鎖を設置した方のお名前として「米沢典之医師」

が書かれ、「追悼」と言う言葉も例の「新宮山彦ぐるーぷ」によって書かれて

いました。

なぜ追悼なのか、詳細は分かりませんが、これだけのステンレスの鎖を設置

するとなると、材料代だけでも相当なものです。そしておそらく一人では無理

なので、人をかなり雇うかしないと無理だと思いました。

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危険な岩場には、このような鎖がたくさん設置してありました。

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新宮山彦グループによる 追悼看板です。

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この地蔵岳周辺は、道が複雑でしかも 険峻なため この鎖は安全に通行する上で 非常に役立っています。

今度「新宮山彦ぐるーぷ」の方にお会いすることがあれば、「追悼」のいきさつを ぜひ聞いてみたいと思います。

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