一つにまとめた作り話で かなり無理がある。
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紀元後165年頃に 九州物部王家の「彦渚武」の皇子 物部の五瀬、その弟稲飯、三毛入りが
第一次東征を開始、紀ノ川河口から大和入りしようとした。
しかし紀の国は 初代大和大王 天の村雲の 腹違いの弟高倉下の地盤で、高倉下の子孫たちに
手強い反撃、迎撃を受けて 五瀬は戦死、竈山神社に葬られる。
残った稲飯と三毛入たちは一旦紀ノ川から退却し、熊野へ回り熊野川を遡ろうとする。
しかしそこでも大和の磯城王朝配下の武人たちに攻められて 動きが取れずやむなく
熊野川の中洲に留まる。その地が 後に熊野本宮大社となる。
困った稲飯たちは ひそかに大和の登美家へ密使を送り 大和入りの道案内を願い出た。
当時大和は 磯城王家が弱まり、豪族たちが割拠していたので この状態を物部家と
共に 平定しようとした登美家当主の 加茂建津之身は熊野川から吉野川、高見川の川沿いの
山岳地帯を案内し、物部王家を登美家地盤の磐余の地に引き入れた。
これが第一次東征であるが 物部家は磯城家に飲み込まれてしまう。そこで起源248年から
物部イクメ王(垂仁)により 第二次東征が始まるのである。
磐余入りした物部家の王が 稲飯か三毛入か分からないので 記紀製作者は「物部ウマシマジ」
なる架空の人物を創り上げ、これを磐余彦と名づけたのだ。それゆえ記紀では稲飯とか三毛入
と言う名前は出てこない。
そして道案内をしてくれた登美家の加茂建津之身を秦国の神話に出てくる「ヤタガラス」と称して長く熊野本宮大社はじめ各地の物部系神社に祭るのである。
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以前、世界文化遺産熊野古道中辺路(なかへち)を歩いた事がある。(2015年 3月 8日)
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中辺路の中でも最終章、高野坂を越えて熊野灘の海の道を歩き ゴールの熊の速玉大社 へ行く道だ。
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綺麗な石畳の道を歩いていく。世界遺産の参詣道だ。
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やがて峠に差し掛かると 右手に熊野灘が見えてくる。
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この海岸を歩いていくのが「海の道」だ。
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潮騒を聞きながら、潮の香りを楽しみつつ約40分くらい歩く。
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やがて「浜王子」にたどり着く。
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鳥居を潜ると こじんまりした社があった。
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浜王子神社のご祭神を読んでびっくりたまげた。
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なんと物部の稲飯と三毛入を祀っているのだ。作り話の記紀では絶対に出てこない名前なのだ。
稲飯と三毛入たちは この海岸の近くに上陸したのだろう。
そして熊野川沿いに 大和へ向ったのだ。
記紀の作り話から漏れ落ちた真実がここにもあったのだ。
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ここからの熊野古道は新宮市内を歩く。まず眼に飛び込んで来たのは なんと徐福公園だ。
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こちらが徐福さんだ。最初は石見海岸の「五十猛海岸」に上陸し、部下の穂日に命じて出雲王家の主王と副王を
相次いで殺害し、自分が出雲王国の いや和国の王になろうとしたのだろう。
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五十猛海岸に上陸した徐福は「火明り(ホアカリ)」と名乗る。出雲王家の高照姫との間に息子五十猛をもうけて 徐福は一旦秦国に帰り、更なる資金と海童たちを秦の始皇帝に貰い受けて 二度目の和国上陸を九州佐賀の浮杯に再上陸し、饒速日(にぎはやひ)と名乗る。
そして 出雲王家の分家 宗像家の市杵島姫との間に 穂穂出見を設け 穂穂出見が九州物部家を起こすのだ。
この徐福上陸と言うのは、徐福が九州に再上陸してから 約350年後の 徐福の子孫の上陸を意味しているのだ。
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さらに歩いて行くと 街中の小さな神社にも面白い由緒書きがあった。
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この神社は徐福を祀っているのだ。
恐らく熊野に住み着いた物部の家臣たちにより、物部の始祖徐福が祭られたのだろう。
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さらに新宮市内を歩いていく。この道も熊野古道のマークが埋め込まれていた。
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ゴールの熊野速玉大社 だ。
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広くて立派な境内だ。この神社も 「世界文化遺産 紀伊山地の霊場と参詣道」の霊場になっている熊野三山の一つだ。他の二つは 熊野本宮大社と熊野那智大社だ。
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熊野三山の主祭神 は 熊野速玉の命 つまり徐福のことだ。二度目に上陸した徐福は 和名を「饒速日」と名乗る。物部王家に伝わる「先代旧事本紀」には物部の始祖として「火明り饒速日(ほあかりにぎはやひ)」と 二人の名前が一つに書かれているが 両方とも 記紀では 素戔嗚(すさのお)と書かれた徐福のことだ。
つまり 饒速日の「速」と言う字を取り 「速玉の命」という形で徐福を祀っているのだ。
平安時代に たくさんの都人、貴族たちが 熊野詣でをしたのだが、平安貴族のほとんどが
徐福の血を引く 子孫たちなのだ。つまり彼らはご先祖様に 詣でていたのだ。
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奈良県吉野町 大名持ち神社 (2015年 1月 15日)
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吉野町の町外れにこの神社は鎮座する。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
その名もずばり 大名持ち神社だ。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
古代出雲王朝は 主王と副王の二人の王で治められていた。東出雲王家の向井家と西出雲王家の神戸臣家(かんどのおみけ)が交代で主王と副王を出していたのだ。
その主王の役職名が 「大名持ち」である。そして副王は 「少彦」と呼ばれた。
紀元前三世紀末に秦国から渡来した 徐福やその部下の穂日たちに幽閉殺害された 出雲王家
第八代主王の八千矛王と 第八代副王の八重波津身は その祟りを恐れた 物部の子孫たちにより 全国に祀られたのである。
記紀では「大名持ち」は「大汝」とか「大己貴(おおなむち)」とか書かれ また個人名として大国主と書かれた。 また副王の役職名の少彦(すくなひこ)は 少彦名とか少名彦名などと悪意を持って書き換えられている。そして個人名は 言代主(ことしろぬし)と書かれた。
また時代が下がると 大国主と言代主は「大黒さん」、「恵比寿さん」と言われるようになり
全国の恵比寿神社は 八重波津身が沼川姫と暮らした松江市美保関町の美保神社であり、大国主は出雲大社に祭られている。
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拝殿から本殿を拝む。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

本殿は遠くからしか見えないが、妻入りの大社造ではないようだ。
ちなみに同じ奈良県の金剛山山頂の葛城神社は言代主を祭っていて ちゃんと大社造だ。
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祭神の説明書きだが、残念ながら 偽りの作り話の記紀の内容の影響をまともに受けている。
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大名持ちは いいとして少彦を少名彦名などと記紀の悪意ある書き換えをそのまま鵜呑みにしているし、最悪はスセリ姫も祀っている事だ。記紀のなかでは 徐福をスサノオと書きその娘をスセリ姫として 大国主と結婚するという無茶苦茶なストーリーになっている。
実際は徐福は 第七代主王の「天之冬衣」の姫君高照姫と結婚し 長男五十猛を設けているのだから 徐福の娘と大国主が出会うはずは無いのだ。
また徐福が一旦秦国に帰国した後二度目の渡来時には 出雲王家の九州分家 宗像家の市杵島姫と結婚し、次男穂穂出見(ほほでみ)と長女穂屋姫を設けているので、そのときにはすでに
大国主たちは 徐福の部下穂日と穂日の息子のヒナドリたちに幽閉殺害されていて 徐福の娘と大国主が出会う事はありえないのである。
と言うことは せっかく大国主のことを「大名持ち」と役職名で祀っているのに 記紀の作り話を鵜呑みにしているのだから この神社は出雲族が建てたものではないようだ。
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この日は政治式の日で吉野町の成人たちが この神社に集まっていた。
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吉野川の河原では 小正月の行事「トンド焼き」が行われるべく 準備中だった。
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このあと 吉野の料亭「平宋総本家」で吉野御膳を食べて帰宅した。吉野名物の鯖寿司、鮭寿司の定食でとてもおいしかった。
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38 出雲の神様「サルタ彦」を祀る 伊勢一宮「椿大神社(つばきおおかみやしろ)」
御在所岳登山へ向かう道に 「椿大神社」の看板を見つけて、山歩きの後にたずねてみた。
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古代出雲王朝の国教は「賽の神三神」であった。
まず クナト大神 この神は大神山ー今の大山に祭られた。
そのお后神が佐比売の命で「佐毘売山」今の三瓶山に祭られた。
そしてその皇子神がサルタ彦であり、出雲北山の鼻高山(はなたかせん)に祀られた。
時代が下った古事記などでは 猿田彦などと書かれたが サルタとは古代インド南部のドラビダ族の言葉
ドラビダ語(現在はタミール人が使っている)で「鼻が長い」もしくは「鼻が大きい」という意味で 象神をあらわす言葉である。
つまりヒンドゥーの神「ガネーシャ」のことなのである。
インドに侵入したアーリア人に押し出されて 南インドから移動を開始したドラビダ人の一派は
ゴビ砂漠からバイカル湖へたどり着き、ブリアートモンゴルと混血を繰り返しながら アムール川を
くだり 日本海を南下して 日本に住み着き、砂鉄の取れる斐伊川下流で 王国を築いたといわれている。
(※斎木雲州著 古事記の編集室 他の著書)
ドラビダ語にはそのほか 古代製鉄法のタタラ(激しい炎)や カネ(鉄)などがあるという。
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大和の出雲王家分家の登美家から分家した 宇治土公家(うじとこけ)により、はやくから伊勢に「椿大神社」
(つばきおおかみやしろ)が建てられて サルタ彦が祀られていた。
その後大和統一が進むにつれて イクメ大王(垂仁)に追われた豊来入姫は 伊勢に逃れ
宇治土公家に保護を求めたという。
豊来入姫は 魏書に書かれた有名な二番目のヒミコ(宇佐王国の豊玉姫)の娘である。
(※ちなみに魏書に書かれた一番目のヒミコはモモソ姫である)
そして魏国の和国駐在武官の張政により豊玉姫(ヒミコ)の後継者に指名されて
魏書に書かれた「トヨー台与」のことである。
大和の桧原神社で月神を祭り「若ヒルメムチ」と呼ばれて人気があった豊来入姫は伊勢に逃れた後は
「宇佐女」と呼ばれたらしいのだが それでは(宇佐とか豊とかと呼ばれると)素性がばれるので
「宇佐女」と呼ばずに「ウズメ」と呼ばれたらしい。
「天の菟津女の命」と ちゃんと宇佐王国のシンボルウサギの字が入っているところがにくい。
記紀では最初の頃は「豊鍬入り姫」と書かれたが 伊勢に行ってからは「天のウズメの命」と書かれた。
そしてサルタ彦と夫婦神と書かれたのである。
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一方同じく同じくイクメ大王に追われた 磯城王家第10代大王 日子坐大王の姫のサホ姫は
最初丹波の真名井神社へ逃れたが やがて伊勢逃れて 出雲系の豪族 井澤登美之命に保護されて
太陽の女神を奉じて 五十鈴川のほとりに 内宮を建てて 初代太陽の女神を祀る斎宮となる。
宇治土公家がサルタ彦を祀る椿大神社を建てたのは、サホ姫が斎宮になるより ずっと古い時代なので、
椿大神社が「伊勢一宮」と称するのも もっともな話である。
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道が分からなくて 途中のコンビニの店員さんに聞いたら 教えてくれた神社がこれだ。
なんか雰囲気が違うなあと思ったら 「椿岸神社」と書いてある。椿大神社(つばきおおかみやしろ)と
たずねたのだが、コンビニのすぐ裏手の この神社をおしえられたのだ。
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境内では 近所の子供たちが 学校帰りに集まって大声で遊んでいた。
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正面の拝殿には やはり「椿岸神社」と書いてある。
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祭神を見てみたら やはり「猿田彦の命」とあるのは 椿大神社と同じだが、天のウズメノ命
と書いてある。つまり豊来入姫(とよきいりひめ つまり若ヒルメムチの事)なのだ。
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そこで この神社に参拝に来ていたご近所のお年寄りに「椿大神社」を聞いてみたら、
この辺で一番大きな神社の「椿神社」なら知っているという。そこでその「椿神社」を教えてもらい、さらに車を走らせた。
すばらしく大きな会館にたどり着いた。
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大きな石碑名盤がたっていて、鳥居がある。
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神社の拝殿かと思いきや、これは単なる入り口の社務所らしい。
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教えられたとおり、長い参道を歩いていく。
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主祭神二柱の絵がかかっていた。やはり「猿田彦大神」と「天之鈿女命」(あめのうずめのみこと)とある。
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長い参道の途中には 出雲の神さんの大黒様と恵比寿様 つまり紀元前二世紀に渡来した
秦国人 徐福とその手下穂日(今の出雲大社宮司の先祖)たちに幽閉殺害された
古代出雲王家の第八代主王(役職名は大名もち)の八千矛王と第八代副王(役職名は少彦)の八重波津身のお二方なのだ。
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長い参道の突き当りには 立派な建物が見えてきた。
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この建物は 「外拝殿」だという。つまり普通の拝殿ではなく、一番外側の拝殿らしい。
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外拝殿の奥に さらに立派で大きな「内拝殿」があり、本殿はその奥だとか。
つまり本殿はどこからも見えないのだ。
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外拝殿の隣には 巫女さんたちが忙しそうに働いていて、お守りやお札を置いてある。
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広い境内の左奥には さらに大きな社務所があり、神職さんたちが立ち働いている。
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この提灯には「伊勢一宮」と書いてある。伊勢で一番古くて権威ある神社なのだ。
この神社も 伊勢神宮も ともに出雲王家の親族が建てたものだが、こちらの神社のほうが
古くからあるのだ。
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入り口に近いこの建物は 「舞殿」のようだ。
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案内標識に 先ほどたずねた神社と同じ名前の神社が書いてあるので行ってみる。
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椿岸神社の境内拝殿には「天之鈿女命」を祭る「鈿女本宮」と書いてある。
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拝殿には「椿岸神社」の額が掛かり さらに奥に建物が見えるが 本殿ではなさそうだ。
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横へ回ってみたが やはり本殿はどこからも見えない。
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椿大神社で亡くなった豊来入姫(魏書にいうトヨ、また記紀では豊鍬入り姫とかウズメノ命)の遺体は
大和の登美家へ送られて 「ホケノ山古墳」に葬られた。
※この話は檜原神社の由緒にも書いてある。
また彼女は この椿大神社境内の 椿岸神社に祀られた。
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広い敷地には 茶室もあった。
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入り口近くの池には 蛙のような置物があったが どう見ても耳がウサギの耳のように長い。
たまたま通りかかった地元の方に聞くと「子供のころからおまいりに来ているが 耳が長いのは 今日はじめて知りました」とおっしゃっていた。
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ひろい境内には 古代出雲で信仰された「龍蛇神」も祀られている。
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こちらも大きくて立派な建物だが 「神霊殿」と説明があったが何をする建物か分からないが
古くて立派だ。
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こちらの境内にも別の「椿会館」があり、参拝者が何人かいらっしゃった。
という事ですばらしく大きくて立派な神社に 驚いた。
さすが「伊勢一宮」というだけの事はある。
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古代出雲トップページへはここから戻れます。
http://yochanh.sakura.ne.jp/kodaiizumo/index.html
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37 日光、上毛野国の古代出雲王家やその血を引く豊来入彦の足跡を尋ねる
日光上州の各地に残る 古代出雲王家ゆかりの地を訪ね歩いた。
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日光白根山二荒山神社
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日光白根山への登山口の一つ、丸沼高原ロープウエーの山頂駅を降りてしばらく歩くと
日光白根山二荒山神社がある。
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標高1900メートルの高地で鳥居を潜る。
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大己貴乃命(おおなむちのみこと)を祀っていると書いてある。
大己貴とは 古代出雲王家の主王の役職名「大名持ち」の事である。紀元前2世紀末に秦国から渡来した
徐福やその手下穂日(今の出雲大社宮司の祖先)たちに幽閉殺害された 主王大名持ちの八千矛王と
副王(役職名は少彦)は徐福の子孫の物部王朝はじめ大和王朝に その大国主や事代主の祟りを恐れられて
全国に「大国主」(八千矛王)、「事代主」(八重波津身副王)として祀られた。
そしていつしかそれお二人が 「大黒さん」、「恵比寿さん」として祀られるようになる。
上州(上毛野国)はイクメ大王に大和を追い出された豊来入彦(記紀では豊鍬入彦)が
最終的に 落ち着いた場所として知られている。豊来入彦は 宇佐王家豊玉姫とイ二エ王(記紀では崇神)
の長男なので、ご両親共に出雲王家の血を引くお方である。
神社の由来書には 日光二荒山神社より勧請したとしてある。
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標高2580メートルの白根山山頂にも二荒山神社奥宮があった。青空が突然黒い雲に覆われて噴出した突風の中で
お参りした。
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日光二荒山神社
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中禅寺湖に面した神社の駐車場から この石段を登っていく。
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立派な山門を潜る。
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長い廊下を進んで 拝殿に向う。
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これが本殿だ。一風変わっていて、なにかおかしい。
まず神社建築特有の「千木鰹木」が無い。そして出雲の王を祀るにしては 大社造りとは縁遠い造りだ。
つまり古代出雲王家の関係者が建てたものではないことが分かる。
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神社の由緒書きを見て驚いた。八千矛王とその皇后、皇子を祀っているのは分かるが
皇后の名前が間違っているのだ。田心姫(たごりひめ)と書いてある。
古代出雲王家第六代の主王 臣津野(おみつぬ)の皇子吾田片隅(あたかたす)が九州宇佐の地に移住して
宗像家を起こした。彼には三人の姫君が居て 俗に言う「宗像三姉妹」だ。
一姫が田心姫で古代出雲王家第七代主王(大名持ち)の「天の冬衣」に嫁がれた。
そして八重波津身(事代主、いわゆる恵比寿さん)や、徐福に嫁いだ高照姫をお生みになった。
二姫が多岐津姫(たぎつひめ)で今の出雲市田儀町に住まわれた。そして第八代主王の八千矛王(大国主と記紀で書かれた)
の皇后となられたのである。そして味鋤高彦や美良姫(八重波津身の皇子奇日方に嫁がれる)を
お生みになったのであり、決して田心姫ではないのである。
そして和国に二度目の渡来時に築紫で「饒速日(にぎはやひ)」と名乗った秦国人徐福に嫁がれたのか 宗像三姉妹の末姫で
あの有名な「市杵島姫(いちきしまひめ) 」なのである。そして彼女がお生みになった穂穂出見が九州物部家をおこすのである。
つまり 日光二荒山神社の御祭神は 八千矛王(大国主)、多岐津姫、そして皇子の味鋤高彦の三柱とすべきなのである。
イズモ族と関係の無い奴らが 後の世に創り上げたから ヘンテコな建物や 間違いの主祭神 を祀り平気なのだ。
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境内には 恵比寿さん つまり八重波津身も祀ってある。
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境内には 黄金の龍が置いてあり、これまたびっくりした。
古代出雲王国では クナト三神(クナト大神、佐毘売の命、それと皇子神のサルタ彦)であるが
竜蛇神信仰も盛んであったという。
松江市内の古い神社には 今でも藁で編んだ龍が ご神木に巻きつけてある。また山代の国へ移住した出雲王家
が建てた 上賀茂神社(古代出雲では神の事をカモと発音したので、大和葛城地方へ移住した奇日方などは
カモ家、カモ族と呼ばれた)境内の砂の三角錐は この龍がトグロを巻いた姿だといわれる。
ちなみに戦場ヶ原の由来の昔話の この神社の龍と赤城山の大きなムカデが戦場ヶ原で戦ったという民話は
この地に移住して来た出雲族(豊来入彦や大彦たち)と 土着の豪族との戦いの話だろう。
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男体山は 日光二荒山神社のご神体である。神社へ手続きをして山頂へ登拝すると 標高約2400m
の山頂に 奥宮がある。
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奥宮には 剣を持った大国主ー八千矛王がいらっしゃる。堂々とした風貌で威厳がある。
旧古代出雲王国国民としては、うれしい限りである。
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赤城神社
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国定忠治の像が建っている大洞地区から大沼を北へ歩くと 赤い橋が見えてくる。
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橋を渡ると 赤城神社の広い境内だ。
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立派な拝殿だ。
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裏へ回ると 本殿が見える。千木を良く見ると 九州物部家の横削ぎではなく、出雲方式の
たて削ぎ方式だ。もちろん妻入り形式ではない。つまり大社造りとは違うのだ。
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神社の由緒書きまたは縁起がどこにも無いので たまたま通りかかった巫女さんに尋ねると
神社のパンフレットを持ってきてくださった。それを見てびっくり仰天した。豊来入彦なのである。
九州物部家の第二次東征で イクメ王(垂仁)と共に 宇佐豊玉姫の皇子たちの
豊来入彦(記紀では豊鍬入彦とかウガヤフキアエズ)と豊来入姫(記紀では豊鍬入姫)は戦って来た。
しかしイクメ王が大和を旧出雲王家の野見太田彦などの協力で平定するに連れて、異母兄妹の彼等が邪魔になりだして
旧出雲王家の助けを借りながら 彼等を大和から 追い出した。
追われた豊来入彦は この地まで逃げてきてこの地の開拓発展に大いに貢献したという。それで祀られているのだ。
しかしこの神社の由緒書きには 「崇神大王が東国に豊来入彦将軍を派遣して平定した」「この豊来入彦を祀っている」
などと、記紀の御伽噺をそのまま載せているので 困ったもんだ。
追放された豊来入彦が 大王に派遣された将軍になっている。
記紀の内容は 史実ではなく、時の権力者が(持統女帝、藤原不比等など)が自分たちが渡来人の征服王朝と言うことを隠し
今の立場を正当化するためにでっち上げた 歴史小説なのに 千年以上立った今でも史実だと思い込んでいる人が多く、困ったものだ。
一般人ならともかく、歴史学者(たとえば梅原先生)なども 記紀の呪縛から未だ解き放たれていらっしゃらない。
渡来人の征服者なんて 和国人は誰も尊敬しないし 馬鹿にして言うことを聞きませんからねえ。
それで自分達は 天の国から下りてきたのだなんて 馬鹿馬鹿しいことをつくりだしたのですから。
宇佐豊玉姫(魏書に書かれた二番目のヒミコ)は出雲王家の血を引くお方なので 当然豊来入彦も豊来入姫
(大和入りした当初は檜原神社で祭りごとを行い 若ヒルメムチと呼ばれた)も当然出雲王家の血を引くお方だ。
ちなみに我が家には 神棚に豊来入姫のお札が安置してあるので、早速この神社でもお守りを購入した。
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榛名富士山神社
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榛名山は その姿が富士山に似ているところから 昔から榛名富士と呼ばれて来たそうだ。
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山頂には「富士山神社」があり、昔からこのあたりの人々が 祭礼時には数珠繋ぎになり登ったそうだ。
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鉄筋コンクリート造の社は 標高1400mの厳しい気候で劣化が激しい。
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神社の縁起が山頂に設置してあるが 劣化、風化が激しくて読みづらい。
主祭神 は「この花咲くや姫」と書いてある。
つまり九州物部家の第二次東征でイ二エ王(崇神)が筑後平野から南下して薩摩の地に来たとき
美しい阿多津姫を見そめて后とし 生まれたのが イクメ王(垂仁)なのだ。
阿多津姫は 出雲王家の血を引いていないが、イ二エ王やイクメ皇子(後の垂仁大王)は出雲王家の血を引く
お方だ。
記紀では 短命に終わった阿多津姫を「この花咲くや姫」と書き 、ついでに短命に終わった物部王朝を隠すため
九州を一度も出た事の無い イ二エ王を大和の大王としたり(崇神)、架空の皇子ヤマトタケルを作ったり、
オキナガ姫の部下の豊前中津彦を「仲哀大王」として格上げしたり さまざまな苦労をして王朝を引き伸ばしている。
ちなみにイ二エ王も 後妻の宇佐豊玉姫も短命に終わっている。
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新しい由緒書きもあった。やはり主祭神 は「この花咲くや姫」と書いてある。
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山頂付近に面白い標識があったので行ってみることにした。
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石碑が四本立っている。
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説明が紀があるが これらは完全に記紀がでっち上げた作り話が世に出回った後に作られたものだというのがよく分かる。
初代大和大王の「天の村雲」が記紀により書き換えられて「神武」とされたり、「咲くやこの花姫」の醜女の姉
として造られた姫などがかかれている。
しかし二度目に和国に渡来した徐福が 筑後で名乗った和名「饒速日(にぎはやひ)」もかいてある。
ちなみに一回目に徐福が上陸した石見の五十猛海岸では その後 和名を「火明かり(ほあかり)」と名乗っている。
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ちなみにその後榛名神社へ行ったけど その頃にはすっかり このあたりの神社に興味がなくなってしまい
ざっと通りすがりに見ただけだ。
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明治政府の無学な田舎侍太刀が出した神仏分離令のせいで 沢山のお寺が 壊されたり神社にされました。
この神社も作りはお寺そのものですね。
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あとでとってつけたような由緒書きがあり、秦国人徐福の和名「火明かり」ににた名前の神さんも祀られていました。
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ということで 出雲王家のゆかりの地、今回の上毛野国、下野の国の訪問を終える事にした。
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36-1 高倉下が母親の大屋姫とともに移住した紀の国のゆかりの地と五十猛を祀る和歌山の各地を回りました。伊達神社(いたて)、射矢止神社(いやと)、大屋津姫神社(おおやつひめ)竈山神社、伊太祁曽神社を巡りました。
今回は高倉下が父の五十猛(徐福の長男で後の名を天の香語山)と母親の大屋姫とともに
紀の国へ移住した痕跡を訪ねる。
大屋姫は出雲王朝第八代主王ー大名持の八千矛王の孫娘である。
また彼女は八千矛王(記紀では大国主と書き換えられた)が徐福らに拉致監禁され殺された後 大和へ移住した八千矛王の長男
味鋤高彦の娘姫でもある。
もっとも大屋姫は晩年を大和葛城に大勢で移住した出雲族とともに過ごし その地には「大屋」の地名が残る。
それと記紀の中のおとぎ話 「神武東征」のモデルの一人にされた 九州物部家「彦渚武王」の長男
物部五瀬(もののべのいつせ)が紀の国に上陸した後 高倉下の一族に毒矢で戦死させられ
家臣たちにこの地に葬られた墓地とその地に建てられた竈山神社(かまやまじんじゃ)を訪ねる事である。
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その1 伊達神社(いたて)、射矢止神社(いやと)、大屋津姫神社(おおやつひめ)
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伊達神社(いたてじんじゃ) 和歌山市園部 1580
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伊達神社は地図の通り 有功(いさお)小学校に隣接していた。
ただこの小学校の案内標識がなくてあちこちで聞いて回った。(東有功小学校の看板はあります)
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道路に面して鳥居がありそこを潜る。
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長い参道を歩く。
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広い境内に出た。
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立派な参集殿がある。
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拝殿に行ってみる。
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拝殿に 由緒が貼ってあった。
五十猛を「いたける」と書いてあるが「徐福の長男 いそたけ」の事である。
その次の八井耳で少し驚いた。高倉下の父は五十猛であるが、母違いの兄がいる。
徐福が2度目の和国上陸後 九州宗像家ー出雲王家の九州分家ーの市杵島姫との間に生まれた「穂屋姫」と
五十猛との間に生まれた 天の村雲が初代大和大王となるのである。
大和大王二代目は沼川耳、三代目は玉手看であるが玉手看の弟が八井耳で多臣家の始祖であり
その子孫に記紀を不比等に書かされた太安万侶がいる。
高倉下と同じ徐福や出雲王家の血が流れているとはいえ なぜ天の村雲や沼川耳、玉手看ではないのか 分からない。
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境内にはご神木があった。
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拝殿から本殿へ続く廊下があるが 中の様子は分からない。
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境内にはさまざまな末社がある。
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こちらの末社を見ていて驚いた。
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なんと「粟島神社」と書いてある。
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粟島とは 出雲王家第八代副王で東出雲王家の八重波津身(記紀では事代主と書き換えられた)
が徐福の部下穂日(今の出雲大社宮司の祖先)や海童たちに誘拐、幽閉、殺害された場所が
「粟島」なのだ。
紀元前200年頃の出来事だが、奈良時代にはまだ人々の記憶に残っていて
万葉集にも 粟島の事が詠われている。
高倉下の子孫たちは、ご先祖様の幽閉された場所を祭ったのだろうか。
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射矢止神社(いやとじんじゃ) 和歌山市六十谷381
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すぐ近くの射矢止神社に言ってみる。
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この神社は現在工事中であった。
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裏に沢山の末社がある。
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ひととおり見て回ったが 昔からの近在の神社を合祀したのだろう。
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本殿の様子も見えない。
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この神社が気になったのは 神社の名前である。
射矢止神社の射るという字は五十猛の「い」に通じているからだ。
先ほどの神社は 五十猛を「いたけ」と読み、伊達(いたて)神社とした。
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先日は奈良県櫻井市で 穴師坐射楯神社(あなしにいますいたてじんじゃ)に行ったが
穴師とは金属精錬技術者の事で射楯(いたて)とは五十猛の事である。
由緒書きがないので ネットで調べると祭神は ホムタ大王(応神)、オキナガタラシ姫(神功皇后)とこれは全国どこでも
あとからついでに祭られているもので 特に関心は無いが、天の香山、一言主 と書いてあった。
天の香山とは「天の香語山」つまり五十猛が丹波へ移住した後に名乗った名前なのだ。
それと一事主は 事代主の事で 関西では一言主とか「いちごんさん」と呼ばれる事が多い
出雲王家第八大副王、少彦の八重波津身のことなのだ。
と言うことでここでも香語山、つまり五十猛を祀っていたのだ。
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大屋津姫神社 和歌山市宇田森59
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宇田森集落の真ん中にこんもりとした森が見える。そこへ近づくのが難しかった。
この小さな橋を渡る。
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参道を歩いていくと 子供たちの元気な声が響いて来た。
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大きな保育園だった。東洋保育園とかいてあり、沢山の小さな子供たちが遊びまわっていた。
丁度私の孫たちと同年齢なのでしばらく微笑みながら 眺めていた。
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鳥居を潜る。
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こじんまりとした拝殿があった。
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由緒書きが貼ってあった。
大屋津姫とは大屋姫のことで 高倉下の母君なのだが、五十猛と結婚した出雲王家のこの姫君をなんと
五十猛の妹姫と書いてある。なんのこっちゃ。
高倉下が母君の大屋姫を祀るために立てたこの神社で ご両親を祀ったのに いつのまにか夫婦が兄妹にされてしまった。
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写真右側の本殿は一応「妻入り」であるが大社造りかどうか 見えなかった。
保育園入口の塀越しに写真を撮らせてもらった。
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五十猛も祀ってある。
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こちらが五十猛神社だ。
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次は その2 竈山神社、伊太祁曽神社、そしてついでに近くの 和歌山電鉄貴志川線貴志駅の駅長タマを拝見
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36-2 九州物部軍東征の折、紀ノ川河口上陸作戦で高倉下の子孫に戦で殺された物部五瀬を弔う竈山神社や五十猛、大屋姫を祀る伊太祁曽神社を訪ねる
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その2 竈山(かまやま)神社、伊太祁曽(いたきそ)神社、それとスーパー駅長たま
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竈山神社 和歌山市和田438
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広く大きな駐車場だ。この神社は和歌山電鉄貴志川線竈山駅を降りてすぐだ。
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広く長い参道を歩いていく。
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立派な楼門だ。今までの神社とは雰囲気が違うなあ。
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広く綺麗な境内だ。
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立派な社務所は無人で 由緒書きが置いてあった。それも大人用と子供用もあり、驚いた。
物部五瀬が この地で戦死したので お供の人々が五瀬をこの地に葬り、その墓を守るためにこの地に
住み着いて その御子孫が今も住んでいらっしゃると書いてある。
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拝殿に向う。
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大きくて立派な拝殿だ。
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内部にカメラのレンズだけ入れさせてもらい 写した内部だ。立派な拝殿だ。
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本殿は九州物部家の様式なので もちろん妻入りの大社様式ではない。
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周りにはずらりと末社が並んでいた。
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私の読んだ本にも書いてあったが やはりこの地は五瀬の墓稜なのだ。
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墓稜は同じ敷地なのだが、一旦外に出る。
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名草と言う地名は面白い。記紀には 五瀬は紀の国の土俗の女酋長に殺されたと書いてあるそうだが、
毒矢を射掛けたのは「名草の戸部」という れっきとした高倉下の子孫の姫たちの軍勢なのだ。
五瀬と同じ血が流れていて(徐福と出雲王家の血) けっして土俗の首長ではない。
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この川にかかる 「雄たけび橋」とは 江戸時代にこの地を訪れた本居宣長が
「雄たけびの 神代の御声 思ほえて 嵐激しき 竈山の松」と読んだ事から名づけられたという。
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この橋の向こうが五瀬の墓稜だ。
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中には入れないので 望遠で門を写した。
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伊太祁曽神社 和歌山市伊太祁曽558
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この神社も和歌山電鉄貴志川線の伊太祁曽駅の近くだ。
この赤い橋を渡る。
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参拝者用駐車場脇の鳥居を潜って歩く。
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長い参道を歩く。
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この鳥居が入口だ。
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広い境内の正面奥に拝殿がある。
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神社の由緒書きだ。ここも 五十猛(香語山)と大屋姫を祀っている。津麻津姫とは誰なのだろう。調べてみよう。
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立派な拝殿だ。もちろん祭神は五十猛と書いてある。
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向って右が大屋姫の社だ。
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拝殿から覗いた大屋姫のお社。
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拝殿から本殿への廊下も立派だ。
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本殿も大きくて立派だ。
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近くによっては見えないが どうも大社造りに見える。
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千木も出雲大社方式の立て削ぎだ。
※俗説に言われる立て削ぎは男神で横削ぎは女神といわれるがあれは間違いだ。
出雲方式は立て削ぎで 九州物部家方式が横削ぎだ。
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ご神木は数年前の台風で折れたらしい。
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折れた部分の「胴潜り」は参集殿で今も出来る。
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広い境内は綺麗に掃き清められている。
大きな社務所では巫女さんたちが忙しそうに働いていた。
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改修費の募集もされていた。
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入口近くにこの神社の古墳があるという。
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登ってみた。この古墳は恐らく高倉下の子孫の紀の国王のものだろう。
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古墳からは神社の屋根が微かに見えた。
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と言うことで今回の予定の訪問はすべて終わった。
そこで 和歌山電鉄貴志川線の次の駅の貴志駅へ行く事にした。
名物駅長の「タマ駅長」にお会いして帰ろうと思う。
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貴志駅は 駅舎が猫の顔をしていた。沢山の観光客のほとんどは支那人だった。
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残念な事に駅長さんはお昼寝タイムだった。
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前任者の駅長さんだ。
お土産のタマグッズを買って 帰宅した。
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35 ソツ彦大王が祀られている羽曳野市大塚山古墳、ヒバス姫が父道主大王に造った天理市 東大寺山古墳を尋ねて、それから天理市和邇に坐赤坂彦神社、天理市石上神社、櫻井市大和神社を尋ねました。
1.大阪府羽曳野市 河内大塚古墳 日向ソツ彦(オキナガ姫と共に三韓征伐を成功させた王)の墓
2.奈良県天理市東大寺山古墳 イクメ大王の皇后ヒバス姫が造りなおした父上のミチヌシ大王の墓稜
3.天理市和邇に坐(わににいます)赤坂彦神社(和邇家始祖出雲王家分家の阿田賀田須を祭る)
4.天理市石上神社 イクメ大王が政治を行ったところ
5.天理市大和神社 大国主を祭り 戦艦大和に分祀された神社 以上である。
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1.河内大塚古墳
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宮内庁の石碑が立っている。
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後から付け加えたと思われる通路があった。
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要するに誰の墓か分からないと書いてある。明治時代に数十軒の民家をどかしたらしい。
宮内庁が「陵墓参考地」としたと言うことは つまり皇族の墓らしいといっているのだ。
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大きな古墳の周りの堀は未だ健在である。堀の周りは車で一周できる。
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このお墓は日向ソツ彦(武内ソツ彦)大王の墓である。
オキナガタラシ姫(息長帯姫)は 1世紀後半に朝鮮半島辰韓から渡来した辰韓の王子ヒボコの子孫である。
ヒボコは最初出雲王朝の直轄地に上陸しようとしたが、出雲の法律を守る事を拒否したため 出雲王に
上陸を拒否され、丹波円山川上流の湿地帯に上陸し 苦労して開拓したという。
オキナガ姫はイクメ大王の孫 ワカタラシ大王の后になり、後の贈り名は神功皇后といわれる。
そのとき辰韓が滅び新羅となった。
オキナガ姫皇后は新羅に対し辰韓の財産の分与を要求したらしいが拒否された。
夫君のワカタラシ大王に朝鮮出兵を持ちかけるが拒否される。そのあとワカタラシ大王は戦死される。
そこでオキナガ姫は豊前中津彦に相談されるが これも拒否されて かつ中津彦は戦死する。
記紀は物部王朝が三代で終わった事を隠すため中津彦を大王に格上げして「仲哀」としているが中津彦は
大王ではなく、オキナガ姫皇后の部下である。
また物部王朝を長く存在したように見せるため、九州から一度も出ずに病死したイクメ大王の父君イニエ王を
大和の大王に格上げして「ミマ来入彦イニエ大王」とでっち上げて 任那からイニエ王がやってきた事にしている。
しかし 任那ができたのは ソツ彦大王とオキナガ姫の三韓征伐が成功したずっと後の話なのだ。
次にオキナガ姫皇后は日向ソツ彦に相談されてソツ彦は 朝鮮出兵を快諾される。
ソツ彦大王は初代大和大王「天の村雲大王」の異母弟高倉下(たかくらじ)の子孫の武内宿祢のひ孫で
武内ソツ彦といい 日向の王となられていた。高倉下の母姫は出雲王家の大屋姫だからソツ彦大王も
当然出雲王家の血を引くお方だ。
ソツ彦王は華麗な人脈を生かして紀伊家、尾張家、丹波海部家など全国から水軍を組織して
三韓征伐の総大将となり、朝鮮半島に向われた。
海上を埋め尽くした夥しい軍船を見た新羅王は戦わずして降伏したという。その後百済も降伏させたという。
三韓征伐に大成功を収めた結果、和国には朝鮮から莫大な税が入ってくるようになった。
そしてソツ彦王は大和に凱旋し 大王となられた。
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ソツ彦の弟武内臣若子の娘岩野姫はオオサザキ大王(仁徳)の皇后となり、イザホワケ大王をお生みになった。
それで当分ソツ彦王家が続く。
そのソツ彦大王の陵墓が恵我之荘の河内大塚山古墳なのだ。
作ったのはもちろん出雲系の土師集団だという。
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2.東大寺山古墳
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かつては古墳の周りに堀がめぐらされていたと思えるが、今は部分的に数箇所の池が
残るだけだ。
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古墳全体が公園になっている。
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遺跡の説明看板がある。この地に勢力のあった「和邇族」の首長の墓だと書いてある。
この墓はイクメ大王の皇后ヒバス姫が父君「彦道主大王」のために晩年作り直したものだ。
記紀がでっち上げた和邇族なるものは存在しない。出雲王家大和分家の富美(トビ)家第八代当主アタカタスの分家が
和邇に住み和邇家を名乗ったのだ。
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古墳全体はは竹藪に覆われていて、手入れされていない。
約300年続いた磯城王朝最後の大王「彦道主大王」は 万世一系をでっち上げた藤原
不比等らにより、さりげなく 大王から降ろされて和邇族なる豪族の王に格下げされた。
王朝交代がバレて 自分たちが渡来人の子孫の征服王朝だということを隠すため
政権交代なぞ 無かったことにして 隠さなければならなかったのである。
宮内庁も この古墳を管理したいけどできないのだろう。
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東屋があり 天理市内や巻向が見下ろせる。
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イクメ大王が乗り越えてきた生駒山地もすぐそこの 右端にみえる。
磯城王朝の反撃で長い間生駒山地にとどまっていたイクメ大王にちなんで「イクメ(生駒)山地」と名づけられた山並みだ。
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イクメ王との戦いに敗れた道主大王は 娘のヒバス姫をイクメ王に差し出し、因幡の国造となられて
部下の武内宿祢とともに因幡の国へ着任された。
その時点でイクメ王はやっと 大王となられたのである。そして道主前大王は その地因幡で生涯を終わられた。
ヒバス姫皇后は晩年 父の終焉の地の因幡の国に住まわれた後、この和邇の地に父君の陵墓を
大王にふさわしく作り直されたという。
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3.和邇坐赤坂彦神社(わににいますあかさかひこじんじゃ)
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東大寺山古墳のあちこちに「和邇に坐ます赤坂彦神社」への案内標識があちこちに出ていた。
どうも気になって 案内のとおりに 炎天下の道を歩いたら和邇の集落に入ってしまった。
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この集落の奥に神社があると書いてある。しかし集落の中は迷路だった。
一軒の家のチャイムを押して教えていただいた。
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その神社は集落のはずれにあり、かなり大きな神社だった。
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拝殿も立派だ。
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拝殿から遠くに本殿が見えるが近づけない。
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神社の由緒が気など どこ名もないので 主祭神 を探していたら、とんでもないお方の名前が書いてあったので
びっくり仰天した。なんと「アタカタス」と書いてあるではないか。出雲王家の方なのだ。
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この神社の隣の敷地には子供広場があり、「富の森」と書いてありまたまたびっくり仰天だ。
登美家の名前は桜井市や天理市のあちこちに残されていて、登美家が色彩を行った「登美の祭場の山」は
もともと登美山と呼ばれていたが 現在は鳥見山(とみやま)とよばれていて 登美家の名残の残るそのひとつだ。
桜井市の宗像神社など「登美に坐ます宗像神社」と石碑に大きく書いてある。(宗像家ももちろん出雲王家の分家)
その他「とび」と言う地名が桜井市のあちこちに残る。
その富の森もその名残かもしれない。
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主祭神の天の児屋根とは春日大社の主祭神で鎌足や不比等などの藤原家の祭神とされる。
鎌足などどこの輩かわからないので どうせ後の世に作り上げたものだろう。
阿田賀田須は出雲王家大和分家の登美家第八代当主でその分家が和邇家の始まりと言われる。
つまりこの和邇の地の豪族和邇家の始まりが阿田賀田須なのである。
一方徐福(秦国からの渡来人で記紀ではスサノオと書かれた)の二度目の和国上陸後 后に迎えたのが
宇佐王家の宗像三姉妹の末娘市杵島姫である。
市杵島姫が生まれたホホデミ(穂穂出見)が九州物部家を起こし 物部王家は二度の東征の結果大和大王となるのである。
この姫の父君もまた 吾田片隅(あたかたす)とおっしゃり、この方は出雲王朝第六代主王の臣津野(おみつぬ)
の皇子で 九州宇佐に移住して 宗像家の始祖となられたのだ。
また最後のホムタワケ大王は宇佐八幡に祭られていて、この方はソツ彦とオキナガ姫のあいだに生まれたとされているが
実際はホムタワケ皇子は七歳で早世されたため オキナガ姫が親交のあった上毛野国国造家の竹葉瀬の君が
七歳なので急遽秘密裏に呼び寄せて 養子として育てホムタ大王として即位させられた。
オキナガ姫に跡継ぎがいなくなれば せっかく三韓征伐で毎年入ってくる莫大な税金が朝鮮から
入ってこなくなるからである。
竹葉瀬の君は豊玉姫の長男 豊来入彦(記紀では豊鍬入り彦とかウガヤ葺きあえずと書かれた)の子孫で
つまりは宇佐豊玉姫の子孫である。
豊玉姫は宇佐豊連合軍の東征で イニエ王亡き後君臨した皇后で 魏書に書かれた二番目のヒミコである。
豊玉姫は宇佐王家の姫なので死後宇佐八幡に祭られていたが、ホムタワケ大王の素性を知って一番喜んだのが
宇佐八幡と宇佐王家だという。
そこであわててオキナガ姫とホムタワケを祀る本殿を増築し、豊玉姫は二の御殿に移されたという。
※現在は二の御殿は 宗像三姉妹が祀られている。
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という事でもう一度 主祭神の表示を見てみると 春日大社の天の児屋根、宇佐八幡のホムタワケ
(八幡大神といわれている)と市杵島姫、そしてこの神社のアタカタスは和邇家の
始祖の阿田賀田須と思えるのである。
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4.石上神社(いそのかみじんじゃ)
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参道を歩いて行く。広く長い参道だ。
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鳥居をくぐってさらに歩いていく。
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珍しい種類の鶏がたくさん歩きながら 大きな声で鳴いている。
記紀の御伽噺では太陽の女神イザナミ(ヒバス姫がモデルといわれている)がスサノオの乱暴に困り
岩戸にかくれてしまい、世の中が真っ暗になったという。そこでなんとかしてイザナミを岩戸から
出てきてもらうべく、鶏を無理に鳴かせて朝がきたとイザナミに勘違いさせようとしたという。
そんな作り話をモデルにして 鶏を神の使いとして たくさん放しているらしい。
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楼門にやってきた。
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門の前に立つと拝殿が見える。
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楼門を潜り、回廊から境内を見たところ。正面に見えるのが拝殿である。
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この神社の神宝とされる七支刀は有名で、百済から謙譲されたという。説明文があり、剣に銘文が
象嵌してありそれを読み解くと 日本書紀の年代を訂正する必要がある云々と書いてある。
詳しい事はよく読めなかったが もともと嘘で固めた記紀だから訂正するもないだろうと思うけど。
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境内には出雲建雄神社というのがあり、その祭神を見てびっくりした。
主祭神は「天の村雲の剣の御霊」と書いてある。
天の村雲の剣とは 大王家の三種の神器の一つで、徐福の長男で五十猛(のちの香語山)の皇子の
天の村雲が初代大和の大王に就任したときに 出雲王家からお祝いに贈られた出雲型の銅剣といわれる。
記紀ではスサノオがヤマタノオロチを退治したときに大蛇の尾から出てきた剣で「草薙の剣」と書き換えられた剣だ。
その剣は天の村雲の実家の海部家から分家した尾張家により持ち出されて、今は尾張熱田神宮に安置されているという。
その剣の神霊が出雲建雄神社として 物部初代王朝の地に祭られているのだからびっくりだ。
徐福の長男 五十猛(後の香語山)の皇子天の村雲が初代大和大王となったが、徐福の次男穂穂出見の子孫の
物部家イクメ大王が 村雲の子孫磯城王朝を倒して物部王朝を打ち立てたのに、磯城家の家宝を祀っている
のだから なんかおかしい。まあ元を辿れば 兄弟の親父は徐福なのだから。
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主祭神はフツノ御霊など物部家の霊剣の御霊とされている。架空の大王の神武がどうのこうのとかいてあるので
おそらく記紀ができた後からくっつけた話だろう。
もともとこの神社はイクメ大王が大和入りして大王として政治を行った地なのだ。
また配祀神として「ウマシマジ」、「イニシキ」が書いてありとても驚いた。
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ウマシマジの尊とは架空の皇子である。
九州物部王家の彦渚建王(魏書にも名前が載っている)の長男物部の五瀬(いつせ)を大将に第一次東征が西暦80年頃
に開始される。
瀬戸内海を通り 紀ノ川河口に到着して上陸しようとすると 紀の国の大豪族で
高倉下の子孫たちが猛烈に反撃してきた。大将の五瀬は毒矢で戦死する。
五瀬の弟たち、稲飯と三毛入りたちは南紀へ迂回して新宮に上陸するがここでも高倉下の子孫たちに攻撃されて
熊野川の中洲から身動きできなかったという。そこで大和へ密使を送り登美家の当主に案内を頼む。
登美家当主 加茂建津野身は 戦乱に明け暮れている大和の平定統一を物部軍と共に行おうと決心する。
そこで加茂建津乃身が出向いて物部軍を先導して今の国道169号線沿いに大和入りし 登美家の領地の
磐余(いわれ)の地に落ち着き 稲飯たちは磐余彦と呼ばれる。
物部軍は登美家の当主に感謝して「ヤタガラス」と崇拝して末代まで感謝したという。
(※当時の支那の神仙思想に基づくヤタガラスの起源に着いては別の機会に説明したいと思います)
つまり 記紀の編集者たちは五瀬亡き後の大将が 稲飯か三毛入りかわからないので「ウマシマジ」という架空の皇子を
考え出したらしい。
(※武内宿禰の異母弟にウマシウチの宿禰と言う人物がいて 記紀の編集者はそれからウマシマジの名前を考え付いたという)
ちなみに私が熊野古道中辺路の熊野灘道を歩いていた時 新宮市の「浜王子神社」に立ち寄るとそこの主祭神は
「稲飯と三毛入」でこのお二人がこの地に上陸されたと書いてあり、びっくり仰天した記憶がある。
記紀のでっち上げの作り話の「神武東征」に毒されていない 歴史の事実が残っていて
しかも神社の由緒書きに堂々と書いてあり大いに感銘を受けた。
記紀ではその150年後の九州物部王家第二次東征(イクメ王ー贈り名は垂仁)
と第一次東征をあわせて「神武東征」と 無茶な作り話を書いた。
そして神武の即位を古代出雲王家初代主王の八井耳の時代(紀元前六世紀)まで引っ張ってさかのぼらせたものだから
各大王の年代がむちゃくちゃになったのだ。150年くらい生きた大王が何人もいらっしゃることになった。
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また「イニシキ」とはイクメ大王の長男でこの方はイクメ大王の王位を後継せず、
次男の「オシロワケ」が大王を継いで「景行」と贈り名をつけられた。
長男のイニシキは河内の国でタタラを行い鉄剣を百振り造り 石上神社に奉納したといわれているお方だ。
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5.大和神社
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たまたま前を通りかかった大和神社(おおやまとじんじゃ)に立ち寄った。長い参道を歩く。
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鳥居を潜ると神社名が大きく書いてある。なんと戦艦大和ゆかりの神社と書いてある。
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主祭神を見て大仰天した。なんと八千矛とかいてある。おまけに歳神様の名前もある。
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拝殿に到着して早速八千矛王に参拝する。
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奥をよく見たが 残念ながら本殿が大社造なのかどうかわからなかった。
しかしここ大和の中心地で大国主を祀る神社は大神神社をはじめたくさんある。
しかし 出雲王家の第八代主王(大名持)を 本名で祀る神社があるとは思っても見なかった。
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「八千矛」とは出雲王朝第八代主王の本名である。
秦国からの渡来人徐福らに主王八千矛と 副王八重波津身の二人がほぼ同時に幽閉殺害された。
徐福の子孫の物部家の王たちは 徐福らに殺された二人のたたりを恐れて 全国に二人の霊を祀る神社を建てた。
記紀で書かれた二人の名前は 大国主と事代主だ。
主王の役職名は 大名持ちと言うので 大国主のほかに 「大汝」とか「大名ムチ」とか言う名前で祀られ、
副王は役職名を少彦というので、事代主と言う名前のほかに少彦名とか恵比寿という名前で 祀られた。
二人が幽閉殺害された 稲目洞窟と志都の岩屋を尋ねた記録は このブログの2013年3月13日の記事にあります。
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古代出雲王朝は 主王(大名持)と 副王(少彦)の二人体制の王たちで統治されていた。
紀元前3世紀の末に 秦国人徐福は 秦の始皇帝の命を受け 不老不死の薬を求めて 蓬莱島(和国)に
沢山の海童(少年や少女)と技術者を連れて 出雲王国の石見の五十猛海岸に上陸した。
その1年ほど前に 徐福は忠実な部下の穂日と穂日の息子夷鳥(ひなどり)を出雲王家に派遣して
上陸の許可を取っていた。そのときの献上品の銅鐸が 出雲王家に神宝として長く保管されていたという。
また穂日の子孫が今の出雲大社宮司の家系である。
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このオオヤマト神社のご祭神を八千矛の本名で祭るのは今まで全国の神社をいろいろ見てきたけど、
初めてだったので 衝撃を受けた。
この神社のもう一人のご祭神 御歳神は古代出雲で信仰された歳神様で 新しい歳を迎えるときに必ずお祀りをしたという。
八千矛王や八重波津身が徐福らに幽閉殺害されたあと、皇子の味鋤高彦やクシヒカタたちは秦国人たちとの共生を嫌い
大和葛城地方へ移住した。
高鴨神社、鴨津波神社、一言主神社などを建てて 父君の霊を祀ったが その中に御歳神社もあり今も御所市に現存する。
また八千矛王の御霊は分祀されて あの戦艦大和の艦長室に祭られた。戦艦大和の乗組員や仕官たちは出撃前にこの神社へお参りして出征
したという、戦艦大和ゆかりの神社でもある。
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古代出雲王朝のトップページはこちらです。
http://yochanh.sakura.ne.jp/kodaiizumo/index.html
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34 ヒバス姫がモデルのイザナミが葬られたという神話の比婆山を歩きました。
もちろん出雲王家の血を引くお方である。
第二次東征で 大和に乗り込んできた九州物部家のイクメ王(このお方も宗像家の市杵島姫ひいては出雲王家の血を引くお方である)
にミチヌシ大王は負けて 皇女のヒバス姫は イクメ大王の皇后となられる。
そして父君ミチヌシ王は彦タツヒコと名を変えて因幡国造となられて因幡へ行かれて
生涯を終えられる。
ヒバス姫皇后は265年に晋の国へ 朝貢されるが 晩年父のご遺体を大和へ運ばれて
大きな古墳を築かれる。天理市の和邇下神社東の東大寺山古墳である。
またヒバス姫ご自身も 大和の地に埋葬されて大きな古墳が築かれる。みな出雲系野見の宿禰 の子孫で
土師氏と呼ばれる集団の築造と出雲古老に伝わる。
ヒバス姫の御陵を尋ねた記録はこちらです。
http://blog.goo.ne.jp/yochanh1947-kodaiizumo/e/47906ea050aaa8d2c1c7608f3e25f1b2
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記紀ではヒバス姫は イザナミの命のモデルとされ、イクメ大王はイザナギの命のモデルとされた。
そして父君の終焉の地因幡の地の西の比婆山に イザナミの命が埋葬されたという作り話が書かれた。
その比婆山を歩いてみた。
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広島県民の森は広島県、島根県の県境の森だ。公園センターからブナの森を上っていく。
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途中から 登山道というか参道は石段になる。比婆山は「御陵」と表記してある。
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参道途中には どう見ても手水桶のような石が置いてある。
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岩に絡みついた「門栂もんとが」と呼ばれるイチイの木から奥が聖域だという。
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山頂標識にも御陵と書いてある。
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小さな祠がある。
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七本のイチイの巨木に囲まれた岩が御陵だという。
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標高1264mのこのあたりは、島根県の大膳原や吾妻山への道や、縦走していくと烏帽子山や出雲峠への道が交錯する。
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御陵の説明文。イザナミの命の御陵だと書いてある。
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比婆山の伝説を説明した看板。
明治政府の田舎侍どもが比婆山を御陵と呼ぶのを禁止したと書いてある。
全くあの知識教養の無い田舎侍どもは 山岳修験道を禁止したり、神仏分離令や廃仏毀釈令を出して 幾多の貴重な仏像を燃やしたり
日本の歴史の恥で 闇を作った張本人どもだ。
程度の低いやつらが権力を握るととんでもないことになるいい例だ。
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もともとイザナギ、イザナミの命は出雲の地で作られた神だ。
イクメ大王の東征にあわせて 九州から日本海を東進した豊王国軍勢と朝鮮人ヒボコの子孫田道間守の軍勢は
相次いで古代出雲王朝の西王家 神門臣家と東王家向家を滅ぼす。頑強な守りのとりでの尺店を敵に教えて物部豊連合軍を
手引きしたのが 秦国人徐福と共に渡来した穂日の子孫唐日狭であり、その功績によりイクメ大王から唐日狭は出雲国造家にしてもらう。
第17代で終わりを告げた出雲王家の旧宮殿に駐留した物部十千根は宮殿を改造して饒速日(徐福)を祀るカモス神社とする。
しかしイクメ、オシロワケ、ワカタラシと短命に終わった物部王朝のせいで 十千根の子孫秋上家は支持基盤を失う。
そこで秋上家はカモス神社を向家に返そうとするが 向家に断られる。
そこで秋上家は古代出雲王朝の信仰のクナト大神、佐毘売の命をイザナギ、イザナミの命と書き換えて
カモス神社に祀る。それが今の松江市の神魂神社(かもすじんじゃ)だ。
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持統女帝が藤原不比等に命じて作らせた記紀は 自分たちが渡来人の子孫であることや、出雲王朝を倒した征服王朝であることを隠すため、
また和国が魏や晋の属国であったことを隠すために さまざまな嘘と作り話で記紀を塗り固めた。
もちろん各地の風土記は古事記が書かれた後で製作されたため、記紀と内容が異なる記事はすべて削除された。
そしてもちろん出雲風土記はあの穂日の子孫唐日狭やウカツクヌが編集したもので 自分たちの祖先が出雲王家の第八代主王
八千矛(記紀では大国主と書かれた)や第八代少彦八重波津身(記紀では事代主と書かれた)を幽閉殺害したことは
いっさい隠している。
大国主、事代主が幽閉殺害された場所は こちらです。
http://blog.goo.ne.jp/yochanh1947-kodaiizumo/e/f4ea65d35648dfaec19543d2603822d3
ちなみに今の出雲大社宮司が徐福の忠実な部下の「穂日」の子孫である。
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33 九州南部を訪ねて古代出雲巡りをしました。日向、薩摩の国を尋ねて 都萬神社、西都原古墳群、生目神社、小戸神社、鹿児島神宮を周りました。
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日向の国
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都萬神社 西都市妻
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3世紀中ごろ 徐福の子孫九州物部家のイ二エ王が第二次東征を決意される。
このお方は出雲王家第七代大名持ち天の冬衣の皇子吾田片隅が豊国へ移住して始められた宗像家の姫君
市杵島姫と徐福の間の長男 穂穂出見の子孫である。
イ二エ王は築紫から南進し薩摩で阿多津姫を娶られて日向の地に都萬国を打ち立てられた。
阿多津姫はイクメ皇子を生まれてこの地で短命な人生を終えられる。
都萬神社はこの阿多津姫を祀る神社である。記紀では「此花咲くや姫」と書き換えられたこの姫の皇子の
イクメが成長して 東征し 大和の磯城王朝を苦労の末に打ち倒して物部王朝を打ち立てられたのだ。
イクメ大王(贈り名は垂仁)が祀られているイクメ神社はのちほど尋ねる。
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まずはじめに訪ねたのが 古代和国の首都 都萬国の都萬神社
西都市の中ほどにこんもりとしたもりがある。
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都萬神社境内
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鳥居を潜って境内へ入る。
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正面に拝殿
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本殿を横から見たところ。もちろん大社造りではなく、九州物部式だ。
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都萬の字が「妻」の字に変わってしまった地名もある。交番の入口左の看板は妻になっている。
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西都原古墳群 西都市
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イ二エ王は阿多津姫亡き後、豊王国の豊玉姫を皇后に迎えられて 都萬豊連合王国を打ち立てられて、
第二次東征を宣言される。
第一次東征に参加した物部の子孫の豪族たちも、当時の大和磯城王家の衰退ぶりと内乱に嫌気を指して
次々に西都原後に集まり始めた。
物部の十千根(魏書にも出てくる 後の出雲王国占領軍司令官)や武内太田根(高倉下の子孫でのちの武内の宿禰。
子孫が平群王朝を創る)
そして朝鮮渡来人ヒボコの子孫 田道間守などである。
当時の和国では大和の磯城王朝、出雲の出雲王朝をしのぎ 和国最大の都市国家となり、着々と東征準備を整えていた矢先
イ二エ王はこの地で病に倒れられる。
その意思を引き継ぎ東征を決行したのが 豊玉姫(魏書に出てくる二人目のヒミコで魏の和国駐在武官
張政から直接和国王を任じられたお方)とイ二エ王の息子イクメ王なのである。
その西都原の豪族たちの古墳が集まるのが王家の丘 西都原古墳群である。
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広い台地に沢山の古墳が点在している。
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数が多すぎてすべては見て回れない。
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比較的大きい者を見て回ったが説明はいっさい書かれていない。
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中に宮内庁の看板がひときわ目立つ場所がある。
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オサホメサホ塚とかいてある。
わざわざ宮内庁が保護しているのだから、ここが西都原の創始者イ二エ王と阿多津姫のお墓であると直感した。
豊玉姫は東征の途中 安芸の宮島で病死されて、宇佐八幡の二ノ宮に祭られていてここにはいらっしゃらない。
また九州から一度も出ずにこの血で病に倒れ 無念の死を遂げられたイ二エ王は記紀では大和の大王に祭り上げられて
ご丁寧に宮内庁により、崇神稜として 天理市にお墓まである。実際のお墓の主は 当時の地元の大豪族 出雲系の登美家の
当主の墓なのであるが。
あまりにも立派なので宮内庁が勝手にイ二エ王の墓にすりかえているのであるが。
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この古墳群は小高い台地の上にあり、西都の街を見下ろせる場所にあり、まさに王家の丘にふさわしい場所だ。
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現在の西都の街並。
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小戸神社 宮崎市末広
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日本全国の神社の神職が挙げる祝詞には「築紫の日向 橘の小戸の阿波岐原で禊たまひし
イザナギの大神 。。。。。」となっていていつも不思議に思っていたのは
なぜ築紫の日向なのかということと、小戸へいつかたずねてみたいものだということだった。
徐福が紀元前2世紀末に和国に二度目に上陸したのが築紫なのである。(一度目は石見の国五十猛海岸)
その子孫のイ二エ王が東征すべく南進して阿多津姫を娶り、日向の国に都萬国を打ち立てて、
阿多津姫がイクメ皇子を産んで産湯を疲らせたのが 小戸という言い伝えから
「築紫の日向橘の小戸」というわけの分からん地名の羅列になったらしい。(斎木雲集書 古事記の編集室)
と言うことでぜひ訪ねてみたかった場所である。
出雲王家の血を引くイクメ皇子が産湯を浸かった場所といわれているのである。
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小戸神社境内
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小戸神社拝殿
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拝殿の内部
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神社の由緒書き。もともとは海岸にあったけど流されたので現在の地に移設されたのだそうだ。
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生目神社 宮崎市生目
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生目神社は道路標識にもあり、またこの地域一体が 生目という地名なのだ。
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参道を歩いていく。
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参道の両側には 休憩所やみやげ物屋がある。
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鳥居の奥が生目神社拝殿だ。
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神社の由緒書きに「イクメ王を祭っているという説がある」とあり 安心した。
なにせ日本全国の神社の由緒書きは ほとんどが「作り話の記紀」に基づいているので、祭神があやふやな者が多い。
古代出雲王家の方々を祭る、出雲や畿内の神社でさえそうなのだ。
このイクメ大王の名前に「イサチ」とついているのは 彼が実際に魏に朝献に行ったときの名前がイサチなのだ。
そのため魏から中朗将の位と錦の襷を授かっている。
そしてよく読むと イクメ大王の皇子のオシロワケ(景行大王)が九州に遠征してきたときに
父君イクメ生誕のこの地に 父君を祀る生目神社を建てたと書いてある。
一説ではという但し書きがあるものの、真実が書いてあるので大いに安心した。
記紀ではイクメ大王を「活目入彦五十狭茅天皇」と称している。天皇と言う名は
天武が言い出した言葉なので、イクメの頃は大王(おおきみ)と読んでいたので
記紀の嘘がばれてしまうのだが、しかし 記紀もたまには本当のことを書くときもある。
活目入彦とは生目(イクメ)の地から大和入りした事を 示しているのでこれは真実だ。
そして彼は五十狭茅(イサチ)の名前で義理の母親豊玉姫皇后(魏書にかかれた二人目のヒミコ)
の命で 魏に朝献にいっているので イサチと言う名前も真実なのだ。
しかし記紀はイクメ大王が若かりし頃 自ら魏へ朝献に行ったことは、つまり和国が魏の属国だったことは
絶対に秘密にしているのである。
まあその気持ちは 分かるけど 大和朝廷やその取り巻きの豪族たちのほとんどは
(出雲王家の分家の 磯城家、登美家以外は) 出雲王家の血が濃厚に入っているとはいえ、元をただせば
ほとんど皆さん方は 秦国人徐福の子孫と徐福の忠実な部下の秦国人穂日の子孫なのである。
(穂日の子孫が今の出雲大社宮司なのである。)
秦国人の子孫たちが 自分たちの祖先が 支那の魏の属国だったことを恥としているのは なんか おかしいね。
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薩摩の国
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鹿児島神宮 鹿児島県隼人市隼人町神宮
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この橋を渡り境内へ進む。
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大きな神社だ。さすがに神宮というだけはある。
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本殿脇に「豊玉彦」が祀ってある。豊玉彦とはこの神社主祭神 の豊玉姫の父君と書いてある。
しかしおそらくは、豊玉姫の長男の豊彦(後に豊来入彦と言われ、記紀では豊鍬入彦と書き換えられた。
また記紀でウガヤフキアエズとも書かれた方だ)のことだと思われる。
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拝殿はとても大きい。
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内部はとてもきれいで豪華な装飾だ。
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神社の由緒書き。
ホホデミー徐福と市杵島姫の長男と豊玉姫ー魏書に書かれた二人目のヒミコ のお二人が主祭神 だ。
この両方ともに出雲王家の血を引くお方なのだ。
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紀元前二世紀末に 石見に上陸した秦国人徐福は 和名を火明かり(ほあかり)と名乗り、出雲王家の高照姫を娶り、
長男五十猛(後の香語山)をもうけた。
そして一旦秦国に帰国して 秦の始皇帝から更なる資金と海童たちや技術者をもらいうけて 再び和国(当時の支那では蓬莱島といった)に来る。
二度目に和国の佐賀浮杯に上陸した徐福は 饒速日(にぎはやひ)と名乗り 筑後平野に住み着く。
そして宇佐の宗像三姉妹の末娘姫の市杵島姫を娶り、穂穂出見(ホホデミ)をもうける。
ホホデミが九州物部家を起こし、その子孫 彦渚武の息子物部の五瀬や、物部のミケイリ、物部の稲飯達が第一次東征を実施する。
それらの物部家が大和入りしたにもかかわらず、大和の大豪族登美家(出雲王家の大和分家)に飲み込まれてしまったのを見た
物部のイ二エ王(崇神)は第二次東征を決意して築紫から南下して日向に 都萬国を打ち立てる。
阿多津姫を病気で亡くしたあと 宇佐の豊王国豊玉姫を皇后に迎えて 都萬豊連合王国を打ち立てて イ二エ王と阿多津姫の息子
イクメ皇子が東征して 大和入りして大王となるのである(垂仁)。
つまりこの鹿児島神宮は 物部の始祖ホホデミと 魏書に書かれた有名な二番目のヒミコの豊玉姫を祀っているのである。
この豊玉姫こそが 当時魏の和国駐在武官 テイシュンから当時の伊都国(和国の迎賓館と大使館があった場所)で
直接親魏和王の印鑑と錦帯を授けられた唯一の和国女王なのである。錦帯を肩から斜め掛けにした豊玉姫は
とても威厳があったと魏書に書かれたそうである。
もっとも和国が一時的にせよ 支那の属国だったことを隠したい後の大和朝廷や記紀の編集責任者藤原不比等らは
徹底してそれらを隠しているが。
ちなみに 魏書に出てくる最初のヒミコは モモソ姫である。
「その女王が立つと 和国の争いは納まり 平和が訪れた」 と 魏書に書かれたのがモモソ姫である。
巻向の大豪族出雲系の登美家当主太田田根子の庇護を受けて モモソ姫は三輪山に太陽の女神を祭り
季節の大祭には各地から豪族たちが大勢参加して巻向の都が大いに栄えたといわれる。
またイクメ大王の皇后 ヒバス姫も 265年に晋に使者を送り 晋書に名前が載ったヒミコは
ヒバス姫皇后である。
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32 奈良県天理市 手白香姫、イクメ大王、オシロワケ大王の各御陵を尋ねました。
手白香姫、イクメ大王(垂仁)、オシロワケ大王(景行) 2015年4月1日
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次に天理市内の御陵に向う。
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手白香姫御陵の周りにも駐車スペースは全く無い。遠くに留めて歩き出した。
集落の真ん中に桜が満開だった。その桜の下に御陵への道標があった。
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しばらく雨の中を歩くと ピンク色に煙る山桜の中に手白香姫の御陵が見えてきた。
なんともすばらしいロケーションだ。
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手白香姫は 平群王朝最後から二人目の大王の皇女で、磯城王朝は初代から三代続けて磯城家(出雲王家の分家)
から皇后を迎え入れられて、出雲王家の血が濃い王家だ。
また夫君のオホド大王は 出雲王家の皇子「オホドの君」が成長されて、越前の国国造家の蘇我家へ婿入りされた。
蘇我家当主オホド王は三国港を整備されて、大型船で日本海交易を盛んに行い、大いに発展されたという。
また旧出雲王家のご出身なので、出雲王家の血が濃い 北陸や越前越後、それに美濃の国造家や関東の出雲系国造家とも
親しく、その名声は平群王朝の大王をもしのぐとさえ言われたという。
また平群王朝の最後は評判の悪いお方が大王で、「平群王家」に見切りをつけた 大伴家や物部家の重臣たちが
オホド王に大和大王就任を打診しにこられたという。
大王就任の条件は 蘇我刀自と別れて オケ大王の皇女手白香姫を皇后として迎えるというものだという。
オホド王は最終的にその条件を受け入れて 樟葉に都を建設して 大王となられた。
※しかし後ほど前妻の皇子たちが都に現れて 大王と名乗るなど揉め事が起こるのである(カナヒ、オシタテ大王)。
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手白香姫皇后の御陵。整然とした雰囲気だ。
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しかしこの御陵の周りにはお堀はすべて埋め立てられて、畑になっている。
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航空写真でも無残な姿が確認できる。
オホド大王、手白香姫の皇子のヒロニワ大王(欽明)がその後の皇族に繋がる始祖なのだから、こういう御陵こそ
宮内庁は 大切にして 周囲を買い取って堀を復活させるべきだと思う。
訳のわからんいい加減な看板を作ってる場合ではないと思う。
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手白香姫御陵から南へ少し離れた場所に 大きな御陵がある。
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大きな御陵の周りには 満々と水を蓄えた御陵がある。
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周りを歩いても正面が分からないので、雨の中で 農作業をしている方に尋ねると
私はちょうど反対側を歩いていたらしい。引き返して正面へ回る。
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正面の石碑には「崇神」と書いてある。吃驚だ。
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この看板にも「崇神」と書いてある。つまり物部イ二エ王」なのだ。
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私はてっきり 「イクメ大王」の御陵とばかり思い込んでいたのだ。
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御陵入口から反対側の裏から入ってきて、正面へ回ると 雨の中満開桜がさびしそうだった。
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「物部イ二エ王」は記紀では 「ミマ来入り彦イ二エ大王」と書かれて贈り名が「崇神」だ。
しかしイ二エ王が築紫を出発し、日向に「都万国」を打ち立てて、「第二次東征」を宣言した頃は
まだ任那は存在していない。
任那はオキナガ姫とソツ彦の三韓征伐の賜物なのだからずっと後の世だ。
任那から大和入りしたなんてとんでもない 記紀のでっち上げだ。
しかもイ二エ王は都万国で死去されていて、九州から一歩も出ておられない。
つまり大和の大王になれるはずがないのである。
イ二エ王の意思を継ぎ 大和入りして物部王朝を打ち立てたのは皇子のイクメなのだ。
私はこの大きな御陵がイクメ大王の御陵と思い込んでいた。
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※後で調べるとイクメ大王の御陵は「奈良市尼辻の宝来山古墳」だと宮内庁は言っているのだ。
かなり小さな御陵で しかも何故奈良なのだろう。
イクメ王が大和入りして都を作ったのは ここ 桜井市と天理市にまたがる巻向地方なのだ。
当時はこのあたりが日本 つまり大和の中心なのだ。
その初代物部王朝の始祖の御陵が遠く離れた奈良市にあるはずが無い。
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この御陵の周囲は 高低差がかなりあり、何箇所かの堰が設けられて水面の高さ調整をしている 大きな御陵だ。
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この御陵の隣には 物部王朝第二代オシロワケ大王(景行)の御陵が並んでいる。
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オシロワケ大王御陵には沢山の花びらが浮いていた。
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オシロワケ大王の宮内庁看板はまともだった。
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後ろの森に ご自分の父上と並んで葬られていると考えたほうがよほど つじつまが合う。
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九州を一歩も出たことの無いお方、つまり九州の地方の王を何故大和の大王だとでっち上げる必要があったのか。
短命に終わった物部王朝を隠すため 記紀の製作者も苦労していると思わざるを得ない。
武内太田根宿禰の裏切りのために一時大和で孤立したイクメ王が、起死回生の逆転劇をしたり、
旧出雲王家の登美家の太田彦(野見の宿禰 )の力を借りて イクメ王の言うことを聞かない田道間守(当麻蹶速)を大和から追い出したり、
異母兄弟の豊来入彦(記紀では豊洲気入り彦とかウガヤフキアエズ)や同じく異母兄妹の豊来入姫
(記紀では豊鍬入り姫とかウズメノ尊)などを 大和統一の邪魔になり 大和から追い出したり、
すったもんだの挙句にやっと成立した物部王朝が たった三代でつぶれたことは なんとしても隠したかったのだろう。
イクメ、オシロワケ、ワカタラシ とたった三代で倒れた 短命の物部王朝を長く見せかける為に
九州から一度も出たことの無いイ二エ王を初代物部王朝の大王としたり、
オキナガ姫の臣下の豊前中津彦を仲哀大王としたり、
ワカタラシ大王の次に「ヤマトタケルの尊」なる架空の皇子をでっち上げたり。
時の女帝も不比等も 苦労しているなあ。
自分たちが渡来系の征服王朝であることを隠すために。
記紀編集責任者 「太安万侶」は 出雲王家の血を引くお方だけど、最高権力者不比等の言うことにはさからえないからなあ。
まあ「太安万侶」は余生を 先祖の土地 「意宇の森」で静かに暮らせてよかったみたいだけど。
※ 初代大和大王「天の村雲」と出雲王家8代目副王「少彦」の「事代主」の長女「踏鞴五十鈴姫」との皇子が
二代目大王「沼川耳」となる。その「沼川耳」と事代主の次女「五十鈴依り姫」との皇子が
三代目大和大王「玉手看」でその弟皇子「八井耳」の子孫が「多臣家」となる。
意宇の森は今は松江市の「阿太加夜神社」になっている。
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31 奈良市にある オキナガ姫、ヒバス姫、ワカタラシ大王の各御陵を巡りました。
今回訪ね歩いた 古代出雲王家ゆかりの地は
その1 奈良市山陵町(みささぎちょう) オキナガ姫(神功皇后)、ヒバス姫、ワカタラシ大王(成務)の各御陵
その2 奈良県天理市 手白香姫(たしらかひめ オケ大王皇女、オホド大王皇后)、イクメ大王(垂仁)、オシロワケ大王(景行)の各御陵
以上を4月1日に訪ね歩いた。
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奈良市山陵町(みささぎちょう)の訪ね歩いた三箇所の地図である。
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まずこの店で腹ごしらえ。同じ一膳飯屋でも「秋篠」なんて恐れ多い名前がついている。(町名です)
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食堂前の町内案内看板で場所をチェックする。
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あの民家の後ろ側の森がオキナガ姫の御陵のようだ。
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このあたりの御陵には駐車場が全く無い。少し離れた場所の道路の広い場所に止めた。
御陵の正面はすぐわかった。
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石碑にて確認する。「神功皇后」と書いてある。
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この宮内庁看板を見てびっくらこいた。なんと「仲哀大王の皇后」と書いてある。
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オキナガタラシ姫は ワカタラシ大王(成務ー物部王朝第三代大王)の皇后なのに。
オキナガ姫は朝鮮の辰韓王子ヒボコ(1世紀半ばに渡来した)の子孫なので、出雲王家とは血のつながりは無い。
朝鮮半島で辰韓が滅び新羅が起こったとき、新羅に対して辰韓の財産相続を請求したという。
話がまとまらず、武力で朝鮮へ行こうというときに相談した夫君のワカタラシ大王に断られて 大王とは疎遠となる。
その後ワカタラシ大王は長門の国で戦死された。そして皇后は朝鮮出兵を次に後豊前中津彦に相談するが 彼にも断られる。
中津彦も若くして戦死したという。
つまり豊前中津彦は 夫君や大王ではなく、皇后の部下なのである。
この後 皇后は朝鮮出兵を 日向ソツ彦(武内太田根宿禰の子孫 日向髪長姫とオシロワケとの間の皇子)に相談したところ、
ソツ彦は快諾し、紀の国や海部家、尾張家などの協力で集まった大船団を率いて
新羅、百済を攻め大勝利を納める。俗に言う三韓征伐である。
仲哀と贈り名を付けられた豊前中津彦は家来であり、夫君ではない。
むしろソツ彦が夫君であり、ソツ彦との間に「ホムタ皇子」が生まれたという。
ちなみに ソツ彦の祖先は あの高倉下で高倉下の母君は出雲王家の大屋姫(大国主の孫娘)である。
ホムタ皇子は7歳で夭折されたという。もしオキナガ姫に後継ぎがいなくなれば 新羅が年貢の提出を渋ると
考えられたオキナガ姫は 当時親交のあった 上毛野国(群馬県)国造家の皇子(竹葉瀬の君)が同じ7歳というのを知られた。
そして「竹葉瀬の君」を極秘に養子としたという。それが後のホムタ大王(応神)だ。
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上毛野国国造家は宇佐豊玉姫(第二のヒミコ)と九州物部家のイニエ王との皇子である豊来入彦の子孫である。
豊来入彦(記紀では豊鍬入り彦とかウガヤフキアエズ)は 豊国軍を率いて 妹の豊姫(第4のヒミコで魏書に台与トヨと書かれた。
ヤマトでは豊来入姫、記紀では豊鍬入り姫) とともに イクメ王の後を追い 大和入りし共に戦った異母兄弟だ。
檜原神社で 月読の神を祀り 次第に大和で人気が出てきた豊姫は 大和統一が進むに連れて イクメ王に煙たがられて
イクメ王の指示で出雲系の加茂田太彦に 豊彦、豊姫および豊国軍はヤマトから東国へ追い出されたお方だ。
ということで 竹葉瀬の君 後のホムタ大王は宇佐家の血を引くお方なのだ。
そのことを知った宇佐家は大喜びして宇佐宮にもともと一つしか本殿が無かったのに ホムタ大王と息長姫の
二つの本殿を追加した。
そして オキナガ姫は中津彦の奥方ではない。
豊前中津彦はあくまでもオキナガ姫皇后の新羅討伐を相談された 単なる臣下なのである。
仲哀大王とすべきは イクメ王と出雲王家の血を引く「日向ソツ彦」なのである。
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御陵の周りには全周囲ではないが、堀が復元されている。
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堀の向こうがオキナガ姫の御陵だ。
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御陵の前庭はきれいに整備されている。
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その御陵の前には「八幡神社」がある。
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この神社はもともと御陵の上にあったという。
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広い境内はよく整備されている。
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主祭神 はオキナガ姫と息子のホムタ大王(応神)、それに玉依り姫とある。
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オキナガ家は近江で「月読みの神」を祭る家であり、オキナガ姫は そこにお生まれになったという。
その「月読みの神」を祭る本家が宇佐王家の宇佐八幡宮である。
ホムタ大王誕生を一番喜んだのは 宇佐王家の宇佐八幡だという。
宇佐八幡は もともとは宇佐王家の豊玉姫(第二のヒミコ)を祀っていたが、あわてて 第二、第三の本殿を作り
オキナガ姫とホムタ大王(身内の豊玉姫の息子豊来入彦の子孫竹葉瀬の君)を祀ったという。
今も宇佐八幡の本殿は三社だ。
そして 「玉依り姫」とは記紀の作り話の人物だ。
宇佐豊玉姫がイ二エ王との間にお生みになった豊来入彦(記紀では豊鍬入り彦とかウガヤフキアエズと書かれた)
を育てた 豊玉姫の妹姫だそうだ。
後に ご自分がお育てになった 豊来入彦と結婚されて 架空の神武大王を生んだとされているわけのわからん姫君だ。
玉依り姫は末皇子の神武以外にも、150年も以前の実在の「第一次物部東征軍」を率いた 物部の五瀬(紀ノ川河口で戦死)や
五瀬の弟の稲飯、ミケイリ(熊野へ転進し登美家の加茂建津乃身の引き入れで大和入りした)などをお生みになったという
支離滅裂な 離れ業をされたお方らしい。
記紀の製作者も 時の右大臣藤原不比等に命じられて とんでもない苦し紛れを考え出したものだ。
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道標に従い、次は「ヒバス姫」と「ワカタラシ大王」の御陵へ歩く。
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ヒバス姫の御陵の回りもきれいに整備されて公園の中を歩いているようだ。
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宮内庁の看板もここは正しく書かれている。
ヒバス姫は約300年続いた磯城王朝最後の「道主大王」の皇女であり、イクメ大王とのあいだに大和姫をもうけられたお方だ。
ミチヌシ大王が物部イクメ王に敗れた後 因幡の国造として旅立たれて、磯城王朝は終わり、物部王朝が始まるが
記紀ではいっさい無視されて 抹殺されている。
万世一系が編集方針の記紀では、王朝交代など あってはならないことなのだ。
その後イクメ王は 晴れて大和の大王となり、前大王の皇女のヒバス姫を皇后として迎えられた。
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ヒバス姫皇后の御陵正面だ。
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この後 軽自動車も通れないような狭い道を歩いてワカタラシ大王稜へ歩く。
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御陵に到着。
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宮内庁看板もちゃんと正しく「成務」と書いてある。
前回訪ねた 「ヤマト トトビ モモソ姫」の御陵 と言うのは 二人の姫君をくっつけた名前で
思わず噴出したが、ここではちゃんと正しい看板だ。
※ しかし次に行く御陵には またしても噴出す看板だった。
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御陵の一部に堀が復元されていて、水をためてあり、往時をしのばせる雰囲気だ。
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ワカタラシ大王の御陵は 三韓征伐から凱旋されたオキナガ姫が 若くして死別された
夫君のワカタラシ大王のために造られたという。
そしてそのすぐ北側にご自分の御陵も生前に築かれたという。
ご自分が皇后として 権力を振るう元を作られたお方と 来世でもご一緒したいという 女心なのかもしれない。
しかしヒバス姫の御陵は その当時 当然存在したと思われるのに何故 それにくっつけて築造されたのか、大きな謎である。
ヒバス姫は ワカタラシ大王の血の繋がる祖母なのであり、何故くっつけて築造されたのか。
まるで おばあちゃんが孫の世話をしているようなのである。
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その2 天理市の御陵へ続く
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30 奈良県桜井市 宗像神社、大神神社、狭井神社檜原神社
今日は 一日がかりで「古代出雲王朝ゆかりの地」を訪ね歩くつもりだ。
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この日訪ねる予定の地とそのゆかりの人物
宗像神社、大神神社、狭井神社、檜原神社
宗像三姉妹、八千矛王(大国主)、八重波津身副王(事代主)、豊来入姫(豊鍬入姫)
()内の名前は記紀により、書き換えられた名前
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宗像神社
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高速道路「南阪奈道路、大和高田バイパス」を降りて国道165号線を走っていて
ふと横を見ると 最初の目的地の「宗像神社」だった。
登美山鎮座と書いてある。登美山とは 今の鳥見山のことだ。
この地に移住してきた東出雲王家向家の皇子「奇日方(クシヒカタ)」が登美家
または富家(とびけ)と呼ばれた。
地名になった「登美」が 今も残っているのを見て びっくり。今日の最初の発見だ。
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神社の駐車場に車を止めて、早速鳥居を潜る。
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宗像神社の拝殿。
宗像家は出雲王家第6代主王「大名持ち」の「臣津野(おみつぬ)」の皇子「吾田片隅(あたかたす)」
が豊の国(大分県)へ移住して始まった。
※臣津野王は出雲では「国引き王」として有名で、古代出雲王国を宇佐の国(大分)から越の国
(新潟)まで広げた王として有名だ。
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だから当然主祭神 は「吾田片隅」と思いきや なんと主祭神 は吾田片隅の娘の宗像三姉妹なのだ。
そして中央の大きな社が、末娘の市杵島姫だという。
渡来人徐福が石見の五十猛海岸に上陸し、息子「五十猛」を設けたあと一旦秦国へ帰国し
さらに大量の海童や技術者を連れて 二度目に北九州「浮杯の地」(佐賀)に再上陸した後、
和名を饒速日(にぎはやひ)と名乗る。
宗像家の姫君「市杵島姫(いちきしまひめ)」と結婚し、その息子「穂穂出見(ほほでみ)」が九州物部家を起こす。
つまり徐福(素戔嗚)の奥方が宗像三姉妹の末娘、市杵島姫なのだ。
左は長女田心姫(たごりひめ)この方は出雲王家第7代大名持ち「天の冬衣」に嫁がれた方だ。
右は多岐津姫(たぎつひめ)この方は第8代大名持ち「八千矛」に嫁がれた方だ。
そして多岐津姫は味鋤高彦(あじすきたかひこ)をお生みになる。
秦国からの渡来人徐福(記紀では素戔嗚と書かれた)や部下の穂日(今の出雲大社宮司の祖先)
や沢山の海童たちに幽閉されて殺害された八千矛王は記紀では「大国主命」と書かれた。
八千矛王は西出雲王家(神門臣家)の出身で、その皇子の味鋤高彦は大和葛城地方に移住して
鴨家と呼ばれた。
※古代出雲では神をカモと発音したので カモ家に鴨の字が当てられたという。
八千矛王とほぼ同時に 徐福、穂日らに幽閉殺害された副王の八重波津身(やえなみつみ)
は記紀では「事代主(ことしろぬし)」と書かれて、その皇子「奇日方(くしひかた)」は
一旦大和葛城地方に移住した後、更にこのあたりに移住して登美家と呼ばれた。
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この地域の地図を見てびっくりした。今日二つ目の大発見だ。
外山と書いて(とび)と発音するのだ。まさに登美家の地盤なのだ。
登美家は後に磯城家(しきけ)とも呼ばれた。
鳥見山も昔は登美山と言い、登美家が登美山山頂から三輪山を遥拝したという。
その遥拝場所は「登美の霊畤(とびのれいじ)」と呼ばれてパワースポットだったらしい。
それゆえこの神社は「登美山鎮座宗像神社」と書かれていたのである。
三輪山は古代出雲族が崇拝する 太陽の女神「大ヒルメムチ」を祭る神奈備山だ。
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次に大神神社へ
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大神神社前の大鳥居前駐車場に車を止めてここから歩いてあちこちへ行く。
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大神神社二の鳥居。ここからは長い参道を歩いていく。
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長い参道を歩いていく。静寂な雰囲気だ。
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拝殿の前の鳥居に着く。この鳥居は出雲王家の分家の諏訪家の諏訪大社御柱のような
二本の柱に注連縄を渡した鳥居で、古代出雲の鳥居様式といわれる。
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これが大神神社の祈りの言葉だそうだ。
大国主の命(記紀では大物主と書き換えられた、古代出雲第八代主王八千矛の命)の
荒御霊は近くの狭井神社に祭られている。
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境内の東側の入口にも 出雲式の鳥居がある。
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境内のご神木には 巳様(蛇神様)がお住みらしい。
蛇神とか竜蛇神信仰も 幸の神信仰とともに古代出雲族の信仰の一つだと伝わる。
松江市内の古い神社(阿太加夜神社など)には境内に竜蛇を藁で編んだ神様が祀ってある。
東出雲王家の分家鴨族の移住した京都北部の上賀茂神社境内の砂の三角錐も
トグロを撒いた巳様の姿だという。
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主祭神 のお二方は 古代出雲王家の主王(役職名は大名持ち)と副王(役職名は少彦)の
お二人だ。
秦国からの渡来人徐福(記紀では素戔嗚)や部下の穂日(今の出雲大社宮司の祖先)
や沢山の海童たちに 出雲市北部「稲目洞窟」に幽閉されて殺害された八千矛王は
出雲王第八代主王(大名持ち)であり、記紀では「大国主命」と書かれた。
記紀ではそのほか主王の役職名の「大名持ち」も「大己貴(おおなむち)」とか
「大汝(おおなんじ)」とかさまざまに書き換えられた。
八千矛王とほぼ同時に 徐福、穂日らに 米子市粟島志都の岩屋に幽閉殺害された副王の
(役職名少彦)八重波津身(やえなみつみ)は記紀では「事代主」と書かれた。
また少彦(すくなひこ)も 記紀では 少彦名とか 一言主とか書き換えられた。
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つまり三輪山をご神体とした「大三輪神社」は古代出雲王家第八代の主王、八千矛と副王八重波津身
のお二人を御祭りしているのである。
そして後世に 「大神神社」とかかれるようになるのである。
ここの神社の本殿は古代出雲形式の「三つ鳥居」になっているそうだが 見ることは出来なかった。
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広い境内の祈祷殿の前を通り、隣の狭井神社へ行く。
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狭井神社の入口、「山之辺の道」に面した鳥居は普通の鳥居だ。
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しかし奥へ入ると 出雲式の御柱様式の鳥居があった。
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境内にある狭井神社の説明書である。
もちろん八千矛の命と八重波津身の命を御祭りしているのだが、ここでまたまた新発見。
踏鞴五十鈴姫(たたらいすずひめ)をも、お祀りしているのである。
踏鞴とはもちろん古代出雲で行われた製鉄方法である。
この姫君は八重波津身(事代主)の姫で、この地に移住した登美家の祖である奇日方の妹姫で、初代大和大王「天の村雲」
(徐福の孫、五十猛の息子)に嫁がれた皇后なのである。
その隣の「セヤ五十鈴姫」と言うお方は 踏鞴五十鈴姫の妹姫の「五十鈴依り姫」のことなのか、
もっと後世の登美家の姫なのか調べてみます。
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狭井神社の境内には またまた新発見の神社があった。
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池のほとりにあったのは、「市杵島姫神社」である。
このお方は徐福のお后で、先ほどの「登美山坐宗像神社」や、京都の松尾大社、祇園さんと呼ばれる八坂神社にも祀られていて、
安芸の宮島の主祭神 でもある。
説明に寄ると元来この社は この地にはなく 後の世に 勧請されたということだ。
物部の子孫がやったことだろう。
この神社には本殿が無く、三輪山がご神体とされる。三輪山へはこの境内から登拝するのだが、
今日は時間がなく次回にしよう。
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檜原神社
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山之辺の道を進むと 檜原神社がある。この神社も狭井神社と同じく 大神神社の摂社である。
鳥居も出雲式の鳥居だ。
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この神社も本殿がなく、三輪山がご神体だとか。
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ここに来て初めて三つ鳥居を拝ませてもらう。
三つ鳥居は 古代出雲族の信仰の幸の神(さいのかみ)三神、クナト大神、奥方の佐井姫の命、
それに皇子神のサルタ彦大神の三神である。
※サルタ彦のサルタとは南部インドのドラビダ族の言葉で「鼻の大きい」と言う意味だそうで
つまりヒンドゥーの象神ことガネーシャ神のことなのだそうだ。
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神社の説明文には天照大神を祀ると書いてある。
佐井姫の命は 記紀によりアマテラスと書き換えられて太陽の女神とされた。
「大ヒルメムチ」のことである。
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この地から見る三輪山の姿である。
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境内左側の末社を見てまたまた新発見。
豊鍬入り姫を祭ると書いてあるではないか。びっくり驚きだ。
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持統女帝が命じ、藤原不比等が編纂させた記紀の 編集方針の第一は 「万世一系」である。
つまり自分たちは天上世界から降臨して 連綿と続く大王家だという作り話だ。
自分たちが渡来人の子孫だとか、出雲王朝やその後の王朝を次々と倒してきた
征服王朝だとは絶対に悟られてはいけないのである。
豊鍬入り姫とは 「豊来入姫」を記紀が書き換えたものであり、九州の物部家イニエ王(崇神)
と宇佐王国の「豊玉姫(トヨタマヒメ)」(魏書にヒミコと書かれた2番目の姫巫女で魏の役人から
「親魏和王の印鑑や襷、錦の旗」を直接受け取った唯一の姫巫女)の娘姫である。
物部家の第二次大和東征でイクメ大王(垂仁)とともに大和入りした姫であるが豊王国から大和入りしたことを
隠すため 豊来(とよき)ではなく、豊鍬(とよすき)と書き換えられたのである。
またトヨタマヒメ亡き後、魏の和国駐在武官「張政」よりヒミコの後継者として指名された
「トヨ」のことである。
もともと豊来入姫はこの檜原神社で「月読み(つくよみ)の神」を祭り「若ヒルメムチ」と呼ばれていた。
イクメ王の大和統一が進むに連れて、豊来入彦(兄)とともにイクメ王に邪魔にされ、
イクメ王の指示で出雲系「加茂田田彦」に追われ、丹波、伊根、さらに伊勢の椿大神社まで逃れたが
最後には イクメ王の放った刺客に殺されて、「ホケノ山古墳」に埋葬された悲劇の姫巫女である。
※イクメ大王(垂仁)の父はイニエ王(崇神)だが 母は豊玉姫トヨタマヒメではなく、薩摩の阿多津姫である。
阿多津姫は記紀では「此花咲くや姫」と書かれた。つまりイクメ大王と豊来入彦、豊来入姫は腹違いの兄妹である。
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この有名な姫巫女のお札を檜原神社で買い求めて 神棚にお祀りした。
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檜原神社の鳥居から西を見ると 持統女帝に殺された悲劇の「皇子大津の皇子」が葬られている
「二上山」が見える。この景色の夕日が 「大和夕日なんとか」で有名だと書いてあった。
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檜原神社の前に一軒の茶店があった。ちょうどお昼なので一休み。
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「檜原にゅう麺定食」を食べたがとてもおいしかった。おいしい具も彩りよく沢山入っていた。
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次はホケノ山古墳、箸墓古墳、「穴師に坐イタケ兵主神社」へ続く
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