古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて 4

        (記事ナンバー 40から49)


   49 島根半島の神社を尋ねました。
    伊奈頭美(いなずみ)、爾佐(にさ)、爾佐加志能(にさかしの)、
    そして加賀 の各神社です。
 


                                                            2016年5月16日

島根半島の神社を尋ねました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

今回訪ねた神社です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
1.伊奈頭美神社 松江市美保関町稲積
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
主祭神 は宇加之魂命(うかのみたまー島根県神社庁による)
この「うかのみたまのみこと」とは日本書紀では 「倉稲魂命」と表記している。
「うか」とは穀物、食料の意味で 食べ物の神様という。

一方松江市教育委員会の立てた説明看板では 「主祭神 は稲倉魂命」(うかのみたま)で字の
順序が逆になっている。
そこで「いなくらたまのみこと」を調べると 稲の精霊の神とか 稲荷神(おいなりさん)とか
出てくるのであり混沌としてくる。

紀元前2世紀に石見五十猛海岸に渡来した徐福が持ち込んだのが 星信仰や稲荷信仰です。
徐福と共に渡来した 部下の穂日や沢山の海童たちと共に出雲王国で大暴れしました。

部下の穂日はこの地に住み着いて その子孫は出雲国造家となり 今の出雲大社宮司に続く
家系であるので 記紀が出来た後から 記紀に迎合するように主祭神 が変更された者と思われます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

北浦海水浴場に面して神社はあります。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

拝殿の中を写しました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

神社の説明書きです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

本殿です。小さいながら大社造りで 千木も出雲方式の縦削ぎです。
と言うことは物部の天下になる前からこの地に鎮座していたと思われます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

藁で作った龍蛇神に紙垂(しで)がお供えしてあります。古代出雲族の信仰は幸の神三神と共に
龍蛇神の信仰でしたから、この藁竜神は 出雲族の風習です。かなり古い神社と言うことの証明です。

松江市東出雲町の阿太加夜神社の藁竜神とおんなじです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
この伊奈頭美神社のある地域は 松江市美保関町稲積(いなづみ)なので もともと大国主を祀った
この神社の名前が地名になったと考えられます。

お稲荷さんである 宇加之魂命はあとから物部や穂日家に迎合するように付け加えられたのでしょう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

2.爾佐(にさ)神社 松江市美保関町千酌
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

千酌(ちくみ)海岸に向って鳥居がたっています。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

鳥居を潜ると拝殿の奥に出雲式の立て削ぎの千木が見えてきます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

本殿は立派な大社造りですが、主祭神 はちと変です。出雲とは関係の薄い神さんです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

主祭神 の説明です。「都久豆美命」つくつみとは月津見(つくつみ)つまり月の女神の事なのではないでしょうか。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
出雲王家の分家 北九州の宇佐王家の豊玉姫(魏書にヒミコと書かれた2番目の姫皇女)の娘で
豊姫(豊来入姫 記紀では豊鍬入り比売と書かれた)は魏書では3番目に書かれた姫皇女ですが
(魏書に言うトヨのことです)、彼女は「月読みの命」(つくよみのみこと)を奉じて大和入りしました。

奈良県櫻井市の檜原神社で月読みの命を祀りますが、月を「つく」と発音しています。
また「津見」とは「海神ーわだつみ」のように神を現すので つくつみ とは月読みの神なのでしょう。

古代出雲王国では 幸の神三神、龍蛇神とともに 太陽の女神を祀っていましたので
何故出雲で 月神が祀られていたのか 良く分かりませんが 記紀に迎合すべくあとから
こじつけられたのでしょう。

魏書に「その女王が立つと ヤマトに平和が訪れた」と書かれた最初のヒミコは出雲王家の血を引く
磯城家のモモソ姫ですが、彼女は富の霊畤(櫻井市)から太陽の女神を三輪山に奉じて人気を集めました。
出雲族は古来太陽の女神を祀っていましたので、月の女神を祀る事はありえません。
※宇佐王家の豊玉姫は月読みの神を奉じていましたが。

島根神社庁によると 主祭神 は「イザナギ、イザナミ、都久豆美の命」となっているので
明らかに記紀の内容に迎合しています。記紀のよると イザナギとイザナミの皇女がツクツミだそうです。

また都久豆美がこのあたりの地名千酌(ちくみ)になったと説明看板に書いてあります。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

3.爾佐加志能為(にさかしのい)神社  松江市島根町野井
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

神社入口の石段前の鳥居です。丸柱が2本左右に建てられていて これに注連縄が張られます。
古代出雲式の鳥居です。奈良県櫻井市の大神神社(おおみわじんじゃ)や檜原神社は出雲系のお社ですが
この鳥居と同じ鳥居が建てられています。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

これが 入口の鳥居です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

本殿は 大社造のようですが、9本柱ではなくて4本柱のようです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

拝殿の中を写させてもらいました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

神社の説明です。爾佐加志能為神社の能為がこの地名の野井になったと書いてあります。
祭神は 大己貴 (おおなもち)の命 つまり大名持ちの命です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
徐福や穂日たちに幽閉殺害された出雲王国第八代主王の八千矛は記紀では大国主と書換えられました。
大名持ちとは出雲王国の主王の役職名なのです。

ちなみにほぼ同時に幽閉殺害された第八代副王の八重波津身は記紀では事代主と書換えられましたが
役職名は少彦(すくなひこ)です。記紀ではわざと間違えて少彦名(すくなひこな)と書換えられましたが。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

神社の石段から見下ろした千酌海岸と集落です。赤い「石州瓦」の家並みが美しいですねえ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
4.加賀神社  松江市島根町加賀
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

加賀港に面した鳥居を潜ります。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

このあたりには珍しい神門があります。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

拝殿も桧皮葺で豪華です。なんかこのあたりの神社とは雰囲気が違いますねえ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

本殿も桧皮葺です。しかしかなり風化が進んで屋根は傷んでいて 千木も腐って落ちています。
唯一残った千木は横削ぎで出雲様式ではありません。直線的、かつ平入り、2間3間の神明造り
に見えます。このあたり出雲地方では完全に異質な建物です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

主祭神 は支佐加比売命とあります。それで納得です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
記紀が出来た後に 各地の風土記は記紀に内容が合うように 不比等らに徹底的に修正させられたり
新たに編纂させられました。

特に出雲風土記は 徐福の忠実な家来の穂日の子孫の穂日家により編纂されました。そして自分たちの祖先が
出雲王国内で暴れた事実を隠し、物部王朝が 渡来人の征服王朝である事を徹底して隠したのです。


出雲風土記に寄れば 支佐加比売が 加賀の洞窟に居るときに金の矢が輝いて流れてきて
それが姫の体内に入り 受胎してサルタ彦が生まれたというのです。
やはり出鱈目の記紀に迎合してあわせているのです。
穂卑家ににらまれて そうしたのでしよう。元来は出雲王家のどなたかの姫が祀られていたのでしょう。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
古代出雲王国の国教は幸の神三神です。クナト大神、佐毘売の命皇后、それに彼らの皇子の
サルタ彦です。と言うことはサルタ彦の御母堂は佐毘売の尊です。

クナト大神は大神山(今の大山)に祀られ、佐毘売の尊は佐毘売山(戦後三瓶山などという
歴史と伝統を無視したつまらん名前に変えられました。残念な事です)に祀られて、サルタ彦は
出雲北山の鼻高山(はなたかせん)に祀られました。

サルタ彦のサルタとは出雲族の祖先といわれる古代ドラビダ族のドラビダ語で「鼻が長い、とか
鼻が高い」と言う意味で つまり今で言うヒンドゥーのガネーシャのことなのです。

この神社は 出雲族が作った神社ではない事が建築様式からも伺えます。
そしてなにより 支佐加比売、サルタ彦親子神を祭っていることは
完全に記紀の内容に迎合した出雲風土記にのっとっているので
記紀が作成された後から 造られた神社であるのが丸わかりです。

日向の都萬国と宇佐王国連合王国の総司令官として 苦労の末に大和入りして 初代物部王家を
樹立した イクメ大王(贈り名は垂仁)にうまく取り入って出雲国造家にしてもらった 
穂日の子孫の韓日狭(からひさ)たちにより この神社は作られたのでしょう。

※ちなみに穂日の子孫は今の出雲大社宮司の家系です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
古代出雲王朝のトップページはこちらです。
http://yochanh.sakura.ne.jp/kodaiizumo/index.html
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー




48 古代出雲族信仰の原点の一つ「割れ目石」を祀った
   女夫岩、およびその周辺の「古墳の森」、佐為神社、
   大森神社を尋ねました。

                           2016年3月4日

前回「熊野の火祭り」で有名な新宮市神倉神社の「お燈祭」が 南紀へ移住した
出雲族の「巨大割れ目岩」に対する女神、豊穣の祭りであるのを見た。
ご神体の「ゴトビキ岩」も本家島根県雲南市の「琴弾岩」と同じ巨岩の割れ目岩であった。

今回は松江市宍道町の「女夫岩」とその周辺を歩いて見た。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「山陰道」宍道付近の「女夫岩トンネル」(黄色い道路公団の車の向こう)の左上に女夫岩がある。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

入口が分からず あちこちで聞いて回った。近くのコンビニの「ポプラ」の若い店員さんも
ご存知なくて、たまたま店に来られた年配の地元のお客さんに聞くとご存知で親切に
教えていただいた。

宍道運動公園の西の「家畜市場」の外周道路に入口があると教えてもらった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

小高い岡の中ほどに広場があり、そこに巨岩がある。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

これは 二つ並んだ夫婦の像というより、「琴弾岩」のように割れ目の女神岩だろう。
谷戸貞彦氏(幸の神と竜ほ大元出版)によれば この割れ目の背後の丘は子宝を孕んだ
女神のお腹だという。そしてこの割れ目岩の両側から尾根筋が延びていて その尾根が
女神の両足だという。

そこで後ほどその割れ目岩から延びる 両足も見に行く。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

女夫岩の説明文。この広場で祭祀が行われていたという。女神様に五穀豊穣を願ったのだろう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

正面にトンネルが見えるがその少し上に女夫岩がある。
女夫岩のすぐ下には「女夫池」があり、前述の谷戸氏によればこの両側の尾根筋が女神の
両足だという。そういわれればそういう風に見えるなあ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この女夫岩は 松江市宍道町才という集落にある。その才集落の中の神社「佐為神社」も見に行った。
この鳥居の奥に参道が続く。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この参道の奥に本殿がある。そして参道の延長線上に女夫岩があると谷戸氏は書いている。
後ほど地図を添付します。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

本殿はこじんまりとしているが 立派な大社造りだ。千木も縦削ぎで出雲式だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

境内に不思議な社があった。石造りで木の扉がある。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

中を拝ませていただいた。この神社は相当古いらしく、出雲風土記にも記載されているという。
つまり古代出雲族信仰の社なのだ。見たらすぐに理解できるが「おはせ石と ほと石」なのがわかる。
つまり子孫繁栄、五穀豊穣を願う女夫石なのが分かる。
拝ませていただいてお賽銭を奉納した。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

境内を歩いているとまたしても不思議な石柱があった。
こちらの面はアマテラスと読めてもう一面は埴安媛(はにやすひめ)と読める。

九州物部軍の大和侵攻で大和から追い出された大和磯城王朝第7代大王フトニ大王(贈り名は孝霊)は
伯耆の国で晩年を過ごすが その息子第8代大王のクニクル大王(贈り名は孝元)のお后が
埴安媛なのである。何故この神社にその名があるのか 不思議だ。
確かに 磯城王朝は古代出雲王家と親戚ではあるけれども。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

反対側の面には 「大名持ち(大己貴)」と「少彦」つまり古代出雲王朝の主王と副王の
役職名が書かれているが これは秦国人徐福とその部下の穂日(今の出雲大社宮司の祖先)
たちに幽閉殺害された 第八代の大名持ち八千矛王と少彦八重波津身副王のことを
言っているのだろう。

と言うことはなぜこの場面に埴安媛がでてくるのか不思議だ。つまり埴安媛も出雲王家の
血を引くお方なのかもしれない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この地図を見ると 谷戸氏が言うように 佐為神社参道の延長線上に 女夫岩があることがわかる。
是も狭井神社が 古代は女夫岩を祀っていたのかもしれない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

佐為神社のすぐ近くに「古墳の丘」があったので立ち寄ってみた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

こちらが発掘されて復元保存された方墳です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

方墳の中から発掘された石棺は本物で、発掘された当時は朱で塗り固められていたそうです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

実際に発掘された埴輪の女性(巫女?)のレプリカ石像です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

こちらは古代出雲王国の祭祀に無くてはならない 出雲王朝のシンボル銅鐸です。
是もレプリカ石像です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

最後にこの近くの大森神社に行きました。女夫岩は現在では この大森神社で行事が行われているそうです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

広い境内の奥に拝殿と本殿があります。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

本殿はもちろん大社造りです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

本殿には自由に近寄れるので 9本の大黒柱を見せていただきました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

祭神を見てびっくり仰天。まるで神様のデパートです。架空の神イザナギから 渡来人で
出雲王家の王を殺した側の徐福(聞きでは素戔嗚と書かれた)や 殺されたほうの八千矛王
や八重波津身副王、果ては時代がぐっと下がって ホムタ大王(贈り名は応神)など
盛りだくさんです。

出雲族が自分たちの王を殺した徐福を祀る事はまずありえませんから、この神社は後世に 
物部族(物部軍の出雲進駐軍司令官 物部十千根の子孫)か 徐福の命令で出雲王家の王たちを
殺した徐福の部下 穂日の子孫(物部王朝に取り入って出雲国造にしてもらった穂日の子孫の韓日差)
たちが作ったものであることがすぐに分かります。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
と言うことで今回の古代出雲王朝ゆかりの地をめぐるたびを終えました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

宍道町は宍道湖の名前の由来となった町だそうです。対岸の出雲市平田町は春霞で霞んでいます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

宍道町沖の宍道湖には 春霞の中を 沢山の蜆漁の船が出ていました。
宍道湖の蜆漁は 乱獲がたたって激減したそうですが 長い間の 自主規制が実って
回復し 再び日本一の座を取り戻したと 新聞に書いてありました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この日は 気温18度。この2、3日 雪と氷の雪山を歩いていただけに 桜咲く 
この陽気が信じられませんでした。
この桜は佐為神社に「佐為花公園」と言う広場があり、そこに咲いていました。
今年も桜の季節がやってきました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「古代出雲王朝ゆかりの地を尋ねて」のトップページはこちらです。
http://yochanh.sakura.ne.jp/kodaiizumo/index.html
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



47 古代出雲族が起源だといわれる岩振興の神社 
   和歌山県新宮市神倉神社、三重県熊野市
   花の窟神社を尋ねました。神ー信仰の地です。

                             2016年2月6日、7日


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
はじめに
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
紀元前5世紀に成立した古代出雲王朝は 幸の神三神を国教とした。
クナト大神、佐毘売の命、および彼らの皇子神サルタ彦である。

そういう人格神の成立以前から 出雲族は自然崇拝をも同時にして来たといわれる。
神の宿る山、神奈備山信仰。神の宿る樹木、神籬(ひもろぎ)信仰。また巨岩に神が宿るとして
巨岩を神ー(かみくら、またはかむくら)として崇拝した。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

島根県飯南町頓原地区の琴引き山地図です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

山を登っていくと やがて巨岩の割れ目があり、社が祀られている。
穴神琴弾岩である。この岩は割れ目を「ホト」に見立てた女神様といわれている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

さらに標高千メートルの山頂には立派な巨岩の割れ目があり、その割れ目の奥にお社がある。
大国主が祀られている「琴弾神社」である。

この割れ目を潜り お社にお参りする事を古代の人は「胎内潜り」ともよんだそうだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
古代出雲王国の主王、大名持ちはこれらの岩神を率先して崇拝したから 大名持ち
(記紀では大国主と書換えられた)を岩(伊和)の大神と呼ばれた事もあるらしい。

出雲王国支配下の播磨に伊和の地名が多く残り、播磨風土記には 大国主を伊和の大神と
記述されているらしい。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
また古代出雲族は割れ目のある巨岩を「琴」と表現したらしい。男神が琴を弾くように触れて
楽しむと考えたらしい。

また倉とは古代では御袋(子宮)を現したので 神ーとか岩倉と呼ばれる山や巨岩は
女神を現すとか。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
また割れ目のある「ホト岩」だけでなく、普通の巨岩も信仰の対象とされた。
出雲王国の王族の遺体は数年間「風葬」にされた。その遺体をつるした樹木を
末代まで「神籬ひもろぎ」として崇拝したという。

洗骨を終わったお骨は山頂付近の巨岩付近に埋葬されて、「お参り墓」とされ、王宮付近の山中に
巨岩を置いて 日常の「拝み墓」とされた。

以下の写真が東出雲王家向家の王宮のあった裏山に現存している拝み墓の巨岩である。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ここが拝み墓の遥拝所で 現在はここまでしか入れない。
※「出雲大神訪問記」の詳細はこのブログの2015年12月13日の記事を参照してください。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

斜面に点在する大きな岩は 斎木雲州先生の「出雲王国と蘇我王国 大元出版」によれば
古代出雲王朝の大名持ち(主王)の数17個あるという。
ちなみに第十七代主王は山崎タラシ王で九州物部王家東征時に滅ぼされました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
和歌山県新宮市神倉神社お燈祭 2016年2月6日 「熊野の火祭り」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

紀南地方に拡散移住した出雲族の神柏M仰で始まったとされる神倉神社は現在は 熊野三山の一つ
「熊野速玉大社 」の末社にされている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

神倉神社の境内に入り 写真撮影を行うには まず速玉大社 に出向いて 千円を支払い
許可証が無いと境内には入れない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この神社に限らず 熊野三山はみな物部王家の始祖の秦国人徐福を祀っているので
本殿の千木は物部式の横削ぎだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
紀元前200年頃石見の五十猛海岸に上陸した徐福は和名をホアカリ(火明り)と名乗り
西出雲王家神門臣家の高照姫との間に長男五十猛(後の香語山)をもうけた後一旦秦国に
帰国して秦の始皇帝から更なる資金と海童たちを貰い 佐賀の浮杯の地に再上陸した。

再上陸後 和名を「饒速日(にぎはやひ)」と名乗ったので 後の子孫の物部家からは
「速玉大神」とか「ニニギの命」と祀られた。

新宮市内には 徐福が上陸したとして「徐福公園」なるものまでありますが 残念ながら
徐福は熊野には来ていません。徐福上陸地点は 石見の国五十猛海岸と佐賀の浮杯海岸です。

九州物部王家の東征で熊野に上陸したのは彦渚武王の皇子たち 物部稲飯と三毛入で徐福の子孫なのです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この速玉大社には なんと出雲王家大屋姫の血を引く徐福の孫の高倉下(たかくらじ)
(香語山の長男で初代大和大王の「天の村雲」の腹違いの弟で香語山の次男 )も祀られている。

出雲王家の血を引くお方なので 千木も出雲式の縦削ぎの千木もあり、出雲王国民としては
うれしいかぎりである。

物部式の横削ぎ千木と出雲式の縦削ぎ千木の混在した「出雲物部融和社」
としては 全国の恵比寿神社の総本社美保神社(徐福らに殺害された出雲副王の八重波津身ー記紀では
事代主と書換えられたー を祀る神社)が有名だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

そして神倉神社へ向ったが なんと驚いた事に 神社へ入る太鼓橋の手前に出雲大社新宮分社があった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

さすがに出雲族が始めたといわれる神倉神社の足元に出雲の神さんも祀られているのだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

そしてまたまた驚いた事に太鼓橋を渡ると 正面になんとサルタ彦神社があった。

古代出雲国教の「幸の神三神」のサルタ彦とは現在のヒンドゥーのガネーシャつまり象神のことである。

南部インドのドラビダ族がアーリア人に押し出されて拡散し アムール川まで逃げた一派が
ブリアートモンゴリアンと混血しながらクナト王に率いられてアムールを下り和国にたどり着いた。

そう伝わる出雲族はドラビダ語が多くのこされているという。その一つサルタ彦のサルタとは
ドラビダ語で「鼻の長い」とか「鼻の大きな」と言う意味で つまりガネーシャのことなのです。

またサルタ彦は鼻の長い天狗様のモデルにもなったといわれます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この鳥居が火祭りの写真に登場する鳥居で ここから石段が始まります。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

荒い石を乱雑に積み上げた石段は とても急で危険な山道だ。ここを真っ暗な時に上り下り
するので大変危険な祭りだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

山頂の鳥居を潜ると巨岩とお社が見えてくる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

下から見上げた巨岩ー神ーとお社だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

出雲族の立てたお社は もちろん出雲式の縦削ぎだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

神ーに注連縄が巻いてあり 何故この岩が「ゴトビキ岩」と呼ばれるのか下からでは分からない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

石段を上り ゴトビキ岩を近くで拝むと すぐに理解できます。

割れ目になったホト岩の間にご丁寧に 子宝岩までのぞいている。
これは正真正銘の女神である事は瞬時に理解できた。しかも 奥出雲の琴弾岩が少し訛って
「ゴトビキ岩」になった事も瞬時に理解できた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
この祭りは 女人禁制だ。それもそのはず一般的には女神山には女性は入れないのだ。

しかも昔はこの祭りは「上り子(のぼりこ)」と呼ばれる男衆が松明で ホト岩をたたくという
所作を行ったらしい。つまり 「種付け」の所作が縁起だという。

今回は夜の祭りに 山頂にまでは行けなかったので 今でも行われているのか不明です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

上り子の男衆の服装は白が基本だ。白は男の種水の色と古来されている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

腰に荒縄を巻きつけて後で跳ね上げる。

古来荒縄は男のオハセの象徴とされたが、後ろの跳ね上がった結び目は オハセそのものだ。

つまり農耕民族の出雲族の五穀豊穣を願う種付け祭りだというのが ゴトビキ岩と、所作と衣装を
見ただけですぐに理解できる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

祭りのほうはたいそう大掛かりで 約3千人の上り子たちが数時間かけて 神聖なる火を向かえて
それを松明に点火して各自の家へ持ち帰り その火で煮炊きをして一年の無病息災を願うというものだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

これが 入口の鳥居のところで撮影された写真で 社務所玄関の衝立に貼り付けてあった。

※ 祭りの起源などは「幸の神と竜 谷戸貞彦著 大元出版」62ページ「出雲族の岩信仰」
を参考にしました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
三重県熊野市「花の窟神社」 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この神社は 世界文化遺産「熊野参詣道 伊勢路」の熊野灘路にあり 本殿はありません。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

正面の巨大な一枚岩がご神体です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

巨岩の上に数十メートルの巨大な注連縄が毎年架け替えられる神事が 執り行われるそうだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
この神社は 私が熊野古道伊勢路を歩いたときに数回立ち寄っていますが
岩を見上げるたびに 出雲族の岩信仰の一つだと いつも思いながら見上げています。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「古代出雲王朝ゆかりの地を尋ねて」トップページはこちらから戻れます。
http://yochanh.sakura.ne.jp/kodaiizumo/index.html
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

46 古代出雲王朝に関係する三つの神社を巡ります。

   その1 九州物部第二次東征軍として 出雲王朝を倒したイクメ大王を祀る往馬神社
   その2 徐福に殺された出雲第八代事代主の八重波津身の奥方美保津比賣(沼川姫)を祀る田原本町村屋神社
   その3 徐福の長男香語山(五十猛)を祀る岐多志太(きたした)神社
   その4 九州物部第一次東征軍を熊野から大和へ導いた登美家当主賀茂建津之身を祀る榛原市ヤタガラス神社

                                                                                 2016年1月11日
ヤマトの出雲王家がらみの三社を尋ねて 2016年1月11日
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
記紀の歴史作り話の「神武東征」は 九州物部家が前後70年離れて行ったヤマトへの東征を 一つにまとめた
無理な作り話だ。もう少し本当らしく創ればいいのに。

今回はその東征の 一回目に 熊野に上陸した九州物部軍をヤマトへ道案内した立役者
「ヤタガラス」こと 出雲王家ヤマト分家の登美家当主の加茂建津之身(かもたてつのみ)」を祀るヤタガラス神社。

そして2回目に大和入りして 大和の大王となったイクメ大王(垂仁)を祀る往馬神社(いこまじんじゃ、
正式名は 往馬に坐イコマツ彦神社)。

それと正真正銘の出雲王である、出雲王国第八代副王(少彦)八重波津身(記紀では事代主と書き換えられたお方)
とその皇后美保津姫(沼川姫の事)を祀る村屋神社(正式名は村屋に坐弥富津比売神社 むらやにいますみふつひめ)を訪ねた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
1.往馬神社 往馬に坐往馬津比古神社 奈良県生駒市壱分町
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
西暦246年に第二次東征を開始した九州物部と宇佐豊王国連合王国のイクメ王は河内に上陸してヤマトへ向う。
しかし立ちはだかる「生駒山地」に阻まれて 山を越えることができなかったと言う。

山の東側 葛城地方には ヤマト磯城王朝第十代彦坐大王の皇子サホ彦が大軍を率いて陣取り
それを越えられなかったという。

そのためイクメ王は長期間生駒山地に留まざるを得ず、そのためこの山地が後世「イクメ山地」と呼ばれて
それが「生駒山地」になったらしい。

大和入りしてヤマトの大王となられたイクメ大王は出雲王家宗像家の市杵島姫と徐福の皇子「穂穂出見」が
はじめた「九州物部王家」の子孫である。

彼はこの往馬神社に往馬津彦として祭られている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

広い駐車場の脇に鳥居が立ち ここから参道が始まる。「往馬大社」と書いてあり、神社より格が上らしい。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

沢山の人が階段を登っていくが、後で分かるが今年から この神社の恵比寿祭りの日にちが変更されたらしい。
なぜ イクメ大王の社に 恵比寿様こと事代主が 祭られているのも後で分かる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

立派な神門を潜るとさらに石段が続く。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

立派な拝殿で沢山の人がお祓いの順番待ちをしていた。お正月の稼ぎ時だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

その奥に本殿があった。しかし七棟ある。往馬津彦お一人のはずなのに、ハテナである。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

良く探すと 何故七柱なのか説明札があった。それを読んでたまげた。
往馬津彦(イクメ大王)と往馬津比売(一回目の皇后のサホ比売なのか二回目の皇后ヒバス比売なのか不明だが)
は 分かる。しかし全国の八幡神社お定まりの 仲哀(オキナガ姫皇后の部下の豊前ナカツヒコ)神功皇后
(オキナガタラシ比売)ホムタ大王(応神)の三柱セット、それに 朝鮮半島辰韓の王子ヒボコの子孫
オキナガタラシ姫のご両親まで祀られているのにはびっくりだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

それに二十柱もの末社があり、さまざまな人が祀られていて まるで神社のデパートだ。
たくさんの神々を祭り ご利益が沢山あるので どうか来て頂戴と言う感じなのだ。
あっけに取られた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

広い境内ではトンドヤキの準備も行われていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この神社の周りの森は 奈良県の文化財らしい。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

歩いて行くと 終に出ました「恵比寿神社」。事代主もびっくり、「なんでやねん」と言いたくなるほど
なんでもありの神社なのだ。毎年今日が 恵比寿祭りらしいのだ。それで人が多かったのだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

こういう石灯籠の字もあった。松江市生馬町の生馬神社を ヤマトに移住した出雲族が この地に
生馬神社を分祀したという説もある。(谷戸貞彦著 幸の神と竜 大元出版)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
この神社は お金儲けに忙しいのか「イクメ大王」の事が全く由緒書きに触れられていない。残念な事だ。
宮崎市でお生まれになったイクメ大王(垂仁)は宮崎の生目神社にちゃんと祀られていて 生目神社の由緒書きにも
「一説では生目入り彦イサチの命(垂仁大王)をおまつりしている」とちゃんと書いてあるのに。

イコマ山地由来のイクメ大王を説明せずして、縁もゆかりも無い八幡三柱セットを祀り しかも朝鮮半島
辰韓王子ヒボコの子孫のオキナガ姫のそのまたゆかりの無い両親までも祀り、その他事代主も含めて二十社
の末社を作り まるで神様の安売りデパートだ。見境が無いとはまさにこのことだ。

がっかりして この神社のデパートを後にした。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
2.村屋神社 村屋に坐弥富津比売神社(むらやにいますみふつひめ) 奈良県田原本町蔵堂426
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

農村地帯の中ほどに こんもりとした森がある。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

鳥居を潜ると 想像も出来なかったほど広くて長い参道が続く。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

広い境内では トンド焼きの準備が行われていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

変わった注連縄だ。初めて見た。長い竹ざおにくくりつけられている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

門松も本体が 砂に埋もれている。これも初めて見た。 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

村屋神社の由緒であるが、残念な事にあまりにも記紀に迎合し過ぎている。
せっかく 出雲の神様というか 実在の王族、古代出雲王朝第八代副王(少彦)の八重波津身(事代主)と皇后の
美保津比売(別名沼川姫)を祀っているのに、とても残念だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
イクメ大王がサホ姫と手を組み、ようやく大和入りし、サホ姫は登美の霊畤(前回訪ねた場所)で三輪山の
太陽の女神を礼拝する。しかし遅れて大和入りした豊来入彦、豊来入姫たち豊国軍に 三輪山と登美山を
占領されてしまう。

その後出雲王家の向野見彦(野見の宿禰 )の子孫や登美家11代当主加茂田田彦たちにより 三輪山は奪還
されて、田田彦は三輪山に事代主を「大物主」の名前で祀るのである。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
秦国からの渡来人 徐福やその部下穂日親子(今の出雲大社宮司の先祖)、および沢山の秦国人海童たちにより
拉致幽閉殺害された大国主と 事代主。事代主の奥方、美保津比売(沼川姫)は皇子を連れて出身地の越へ戻られた。

屋敷のあった 松江市美保関町には 姫皇子の美保ススミ比売が事代主を祀る美保神社に残られた。
沼川姫の皇子、タテミナカタは 越の姫川から 沢山の越の人たちや出雲族を引き連れて更に諏訪湖へ進み
諏訪湖の開拓に成功された。諏訪大社の主祭神 の「タテミナカタ命」である。

沼川姫は 諏訪湖の中ほどに 銅像でたたずんでおられる。

そういう 出雲王家に由緒あるお二人のことを 記紀に毒されて 高皇産霊神(たかみむすび天孫降臨に出てくるわけのわからん神)
のむすめだとか 大物主と 大国主と 完全に勘違いしたり、非常に程度の低い由緒書きで残念だ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

本殿の前にも鳥居がある。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

本殿は朱塗りで二連棟だ。事代主(大物主)と 美保津比売皇后だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

末社に恵比寿神社があり、驚いた。主祭神 の大物主が この恵比寿神社の祭神の事代主と
別の神様と思っている証拠だ。恐ろしや、記紀の呪縛。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

神社横に立派な社家の建物があり、大いに興味を引かれた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

表札は「守屋」と書かれていた。この地域は「村屋」なので 守屋が村屋になったのだろうか。
守屋家はこの地の豪族だったのだろう。出雲王家の血を引く方なのか 興味が沸いた。
機会があれば お話を伺いたいものです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
3.村屋神社のすぐ近くの岐多志太(きたした)神社
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

村屋神社のすぐ近くの田んぼの中に神社らしきものがあったので 気になって寄ってみた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

近寄ると岐多志太神社と書いてある。 
 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

神社の由緒書きをみて 驚いた。なんと徐福の長男、香語山を祀っているのだ。

島根県大田市の五十猛海岸に 大勢の海童や事前に上陸した部下の穂日と共に 上陸した秦国人徐福は和名を
ホアカリ(火明かり)と名乗る。そして出雲王家第七代「天の冬衣」の姫皇子「高照姫」との間に長男五十猛を
設けるのである。

五十猛は成長して丹波の国へ移住し、香語山と名乗る。

香語山と穂屋姫(徐福が宗像家の市杵嶋姫との間に設けた姫で保保で見の妹)との間の皇子が
「天の村雲」で初代大和大王であり、香語山と出雲王家の大屋姫との間の皇子が高倉下(たかくらじ)である。

しかし記紀では 天の村雲の名を消されて「神武」と言う名に書き換えられた。
※2代目から9代目までの磯城王朝の大王名は そのまま採用している。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
由緒書きを読んで またまた噴出した。 香語山は歴史作り話の中で アマテラスが岩とに隠れた時、
おびき出す為に音楽を奏でた 音楽の神様らしい。ばかばかしいにもほどがある。

それとアメノコヤネも祀っているという。中臣氏の祖先といわれ 記紀では天孫降臨したと書かれた神だ。
やはり 記紀を書かせた藤原不比等に逆らえないので 迎合する由緒となったようだ。

それと やはりこの地は 物部氏や鏡作り部の土地なので 徐福の長男の五十猛(香語山)を祀ったのだろう。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この拝殿の向こうに本殿がある。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

本殿には近寄れないが、二棟みえるので 五十猛とアメノコヤネを祭っているのだろう。

まあこんな小さな神社でも記紀の呪縛にのろわれていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
4.ヤタガラス神社 奈良県宇陀市榛原高塚42
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

国道に面して立派な鳥居が立っている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

駐車場から神社全体を見上げる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この鳥居を潜ると広い境内だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この神社も境内でトンド焼きの準備がされていた。右が拝殿だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

拝殿の奥にさらに石段が見えている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

石段をさらに登っていく。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

本殿が朱塗りの塀で囲われている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

隙間から本殿を覗くと、広くて大きな神社に不釣合いな程 ごじんまりとした本殿だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

本殿は 出雲式とは程遠く、千木も物部式の横削ぎだ。
九州物部家を熊野から大和へ安全に引き入れてくれた登美家の「加茂建津之身」に感謝して 
物部族が建てた神社なので 物部磯城なのは あたりまえなのだが。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ヤタガラス神社の由緒書きです。
熊野に上陸した神武大王を大和へ導いた、加茂建津之身(賀茂建角身)を祀っているとかかれています。
そして賀茂建角身は山代の加茂族の祖と書いてある。

まあ記紀に迎合したところは 少しあるが、神社の由緒書きの中ではかなり上出来のほうです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
九州物部王家の第一回東征は 西暦165年頃筑後から薩摩への南下で始まった。
四国南岸を進み、紀伊水道から紀ノ川の下降に上陸しようとしたが、高倉下の子孫たち(名草の戸部たち)により
強烈な 反撃を受けて、総大将の物部の五瀬は戦死する。

※五瀬の遺体は和歌山市竈山神社に祀られて 家臣の人たちが今も守り続けていらっしゃいます。竈山神社訪問記は
このブログの2015年9月8日です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
一旦船へ引き上げた物部軍は五瀬の弟の稲飯と三毛入を大将として 紀伊半島を南下して熊野へ上陸するが
熊野でも大和磯城王家の兵たちにゲリラ戦をし掛けられて全く動けなかったという。

彼らは 熊野川の中洲に陣取ったまま その地から動けなかったので、秘密裏に大和登美家へ使者を送り
大和への道案内を頼む。(その陣地の熊野川中州に最初の熊野本宮大社が建てられた)

※ちなみに熊野海岸の物部軍上陸地点に建てられた 稲飯と三毛入を祀る浜王子神社はこのブログの2015年11月14日です。

登美家の当主「加茂建津之身」は 戦乱に明け暮れていた大和を物部軍と共に平定しようと考えて 物部軍を
熊野川、吉野川沿いに案内して大和へ引き入れて 登美家地盤の磐余の地に 住まわせます。

記紀は 稲飯か三毛入かどちらが大将か分からないので 「物部ウマシウチ」なる人物を創り上げて磐余彦として
「神大和磐余彦」と書いて神武という贈り名をつけた。

この磐余彦を初代大和大王としたので 天の村雲の名は歴史から消されてしまったのだ。

しかも 記紀のでたらめは続き、古代出雲王朝も 存在自体を隠すため 磐余彦の大和入りを紀元前5世紀頃の
古代出雲王朝の初代大名持ち「菅の八井耳」の時代までさかのぼらせたものだから、磐余彦以後の大王たちは
150年くらい生存した大王が沢山居る事になった。

大和入りした物部軍は 加茂建津之身に感謝して 鴨と 鳥のように聞こえる彼の名をヤタガラス
(古代支那の神仙寓話の中で太陽の中に住む 三本足の神の使いの烏)と呼んで末永く祀ったという。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

吉野の地酒「ヤタガラス」が奉納されていた。このお酒は昔から吉野の地酒で有名だ。
もちろん日本サッカー協会のエンブレムになるまえから 有名だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

あわてて付け加えた、真新しいモニュメント。サッカーボールを持っているところが笑わせる。
今の時代に迎合する姿勢が 記紀が書かれた当時に 時の最高権力者不比等に迎合する姿勢に通ずるものがある。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

境内から鳥居を通して外を見ると 伊那佐山が見える。
記紀によると 神武が熊野からこの地、伊那佐山までやって来たところ、空腹を覚えたので この地の鵜飼に
食べ物を持って来いと仰せられたそうである。

物部の稲飯や三毛入たちは、険しい山岳地帯を ゲリラ兵たちに怯えながら 登美家の人たちに導かれながら
やっとこの地まで無事に辿りつき もうすぐ登美家の地盤なのでほっとしたのであろう。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 




45 ヒミコが祭祀を行った「登美の霊畤」、記紀の編者
   太安万侶を祀る多家の「多神社」、鏡造り部たちが
   住んだ土地に建てられた「鏡造り神社」を尋ねました。

                                    2015年12月26日

奈良県櫻井市の等彌神社と鳥見山霊畤
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
大和盆地は古代史の舞台であり、遺跡の宝庫です。

秦国人徐福が出雲に渡来して、連れて来た部下の穂日親子や海童達により 出雲王国の主王副王が
相次いで殺害され、その皇子たちは秦国人との共生を嫌い 大和葛城地方に移住します。

大国主の皇子、味鋤高彦(西出雲神門臣家)は南葛城へ、事代主の皇子奇日方(東出雲向家)は
中葛城へ、そして徐福の息子五十猛(移住後は香語山と名乗ります)までも 遅れて葛城北部(笛吹)
にやってきます。

そして徐福子孫と出雲王家子孫たちで 初期大和政権が誕生します。

初代大和大王「天の村雲」に始まる磯城王朝は次第に東進して櫻井市付近にいたります。
大和の神社や史跡などを丹念に見ていくと、とんでもなく面白い発見があります。

今回もその一つ、桜井市の「等彌(とみ)神社」と「鳥見山霊畤(とみやまれいじ)」です。
奇日方の子孫は「登美家(とびけ)」と呼ばれます。出雲王家の向家は富家(とびけ)とも呼ばれました。
その登美(とび)の名前が今も櫻井市のあちこちに残っています。

鳥見山(とみやま)ももともとは登美山と呼ばれていました。また付近の地名は今も櫻井市 外山(とび)です。
またこの地の宗像神社は「登美に坐(います)宗像神社」が正式名称です。

その登美の霊畤とは 太陽の女神を祀る三輪山を 登美の霊畤から遥拝し、祭りごとを行う祭政一致の
政治行事を行う広場の事です。その登美の霊畤が 今日まで保存されているとは 思いもしませんでした。

※ちなみに宗像家は出雲王国第六代臣津野(おみつぬ)王(別名国引き王)の皇子吾田片隅(あたかたす)
が北九州へ移住して作った分家です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
魏書に「その女王が立つと和国の戦乱が納まり、平和が訪れた」と書かれたヒミコはモモソ姫です。
そのモモソ姫が祭祀を執り行った場所が「登美の霊畤」つまり今の鳥見山(とみやま)山頂なのです。

磯城王朝第八代クニクル大王と磯城家クニアレ姫との間に生まれたモモソ姫は 母に似て信仰心深く
三輪山の太陽の女神を祀る姫巫女となります。三輪山の姫巫女は磯城家か登美家の姫しかなれないのでした。

九州物部王家の東進で ヤマトに出雲系豪族と物部系豪族の対立抗争、戦乱が続いていましたが
モモソ姫が姫巫女となり、太陽女神の崇拝行事をするようになると、戦乱が納まったといわれます。

モモソ姫の兄の第九代オオヒビ大王よりも モモソ姫は人々の大きな尊敬心を集めたという。登美家第九代当主
太田田根子(おおたたねこ)の庇護の下、春と秋の大祭には 大和はおろか出雲、越、尾張からも豪族が集まったと言う。

太田田根子の地盤の巻向に多くの宿舎が立てられて大いに栄えたと言われます。そのためその地は櫻井市「太田」
の地名がのこっています。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

等彌神社入口だ。この「とみ」という発音ももともとは登美だったのだろう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

こちらの道路側の鳥居は伊勢神宮の「お下がり」らしい。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

石段の参道を進むと 石の鳥居があり、更に参道を進む。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

その奥に上ッ尾社がある。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

綺麗に磨き上げられた上ッ尾社拝殿の中。主祭神 はどこにも書いてないが どうせ出雲の神さんだろうと
軽く考えたが、後日ネットで調べたら「大ヒルメムチ」と書いてあり、びっくりだ。後で述べます。
お参りを済ませてから霊畤へ向う。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この鳥居を潜ると 鳥見山霊畤への道が始まる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

すぐに「黒竜社」がある。さすが出雲の神さんの神社だ。出雲族は幸の神三神の 国教のほかに太陽の女神や
竜蛇神の信仰もしていたという。この社は竜を祭っている神社だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

山道を歩いて登る。左手には高校があり、女生徒のテニスの掛け声が響いていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

すぐに「霊畤遥拝所」があった。もともと霊畤とは 三輪山に祀られている「太陽の女神」を鳥見山山頂で
遥拝する為の施設なのに、その鳥見山山頂をここからさらに遥拝するのだという。「ハテナ?」である。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

山道には沢山の標識が立ててあり、迷う事はない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「庭殿」に立つ石碑と説明看板。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ここは 祭りのときなど 沢山の人(もちろん各地の豪族たちです)が宴会をしたところだという。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

鳥見山山頂の霊畤に着いた。入口の鳥居から2キロ、ゆっくり歩いて30分弱だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

周りの雑木林のために良く見えないが、真北の山が三輪山のはずだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

下山途中に 別の社へ寄る。下ッ尾社だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

大きな赤い玉が吊り下げられている。太陽のようだ。三輪山に祀られていた「太陽の女神」を現しているのだろう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

下ッ尾社の本殿は二社あった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

下ッ尾社のすぐ近くには「サルタ彦」が祭られていた。さすが 出雲の神の社だ。
サルタ彦は出雲族国教幸の神三神のうち、クナト大神(父神)、佐毘売の尊(母神)、そしてサルタ彦(皇子神)
である。サルタとは古代インドのドラビダ語でいう 「鼻の長い」と言う意味でつまりヒンドゥーのガネーシャの事だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この神社は広く大きな神社だった。この鳥居の下が社務所と駐車場だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

三輪山と鳥見山の位置関係である。真南から三輪山を遥拝していたのだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

歩いた軌跡です。等彌神社から鳥見山霊畤までゆっくり往復した50分ほどだった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「太陽の女神信仰」について
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
太陽神は出雲族により 崇拝されていました。渡来人の徐福の子孫である物部族は「星」、「月」、「狐」を信仰
尊敬していて 七夕祭りや「月読みの神」、「稲荷信仰」はその名残です。

等彌神社のご祭神「大ヒルメムチ」とはモモソ姫ではなく、元来「サホ姫」のことです。

磯城王朝第十代彦坐大王の姫のサホ姫は、大和に進攻してきた九州物部王国のイクメ王と一度は結婚し
三輪山の太陽神を祭り 「大ヒルメムチ(大日霊女貴)」と呼ばれて 人気を集めますが、遅れて大和入りしてきた
豊国軍の豊来入彦に追われて 皇子のホムツワケを連れて兄のサホ彦の元に逃げます。

そして豊国軍は イクメ王に呼び出された出雲郡の野見の宿禰 に追い出されるまで「登美の霊畤」を占領します。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
この神社の祭神の「大ヒルメムチ」はモモソ姫とかサホ姫とかいう 個人名ではなくて、太陽の女神を
司祭する 磯城家、登美家代々の姫巫女一般のことをいうのではないのでしょうか。

それとも太陽の女神そのものを言うのかもしれません。

いずれにしても 現代まで古代出雲王国のゆかりの施設が保存されていて 驚きでした。
やはりヤマトは凄い。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
奈良県田原本町の多(おお)神社
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
多家は日本有数の由緒ある家系です。

初代ヤマト大王「天の村雲」は磯城家のタタラ五十鈴姫(事代主と玉依り姫の姫)と結婚し、その皇子
「沼川耳(ぬなかわみみ)」が二代目大王となります。沼川耳はタタラ五十鈴姫の妹「五十鈴依り姫」と結婚し
玉手看(たまてみ)と八井耳の皇子が生まれます。

王位を継いだのは 弟の玉手看(たまてみ)で 八井耳は「多臣家」の始祖となり、その家系が連綿と続き
記紀製作者の太安万侶は 多家の子孫です。

つまり太安万侶は出雲王家の子孫でもあるのです。もともと臣は出雲王族を現す家系です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

多神社へ向う道には大きな鳥居が立っています。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

駐車場からこの鳥居を潜って 境内に向います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

正面に立派な拝殿が見えます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

本殿は四連の作りで 私は始めてみました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この神社の説明看板です。正式には「多坐弥志理都比古(おおにいますみしりつひこ)神社」です。
この付近の地名は「多」となっています。

祭神は「神武」これは「天の村雲」を記紀が神武と書き換えているので初代ヤマト大王天の村雲 つまり
多家始祖の八井耳の祖父です。それと八井耳の父親の二代目ヤマト大王沼川耳、それと太安万侶も祭られています。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

大きな社務所があり、たぶん社家だろうと思い表札を見に行きました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

やはり「多家」でした。凄いですねえ。2千年以上も続いている家系なのですねえ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

多神社の前に石碑がありました。新しくて取ってつけたような石碑でした。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

その裏に「小社神社」があり、調べると太安万侶が祭られていました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
太安万侶は 記紀を書き上げたあと、記紀の秘密を守るため 人麻呂と共に不比等により幽閉されます。
太安万侶は 幸運(?)にもご先祖の地 出雲王家東王家の向家の領地に幽閉されます。

太安万侶は 幽閉されながらも 秘密裏に向井家と連絡を取り「自分は出雲王家の血を引く 多臣家の末裔で
山部赤人の名前で 幽閉されながら記紀を書かされた」と伝えたと言われます。

そして「古代出雲王十七代の王の名前を古事記に書き入れた」と伝え、それに対して向家は出雲族を代表して
お礼を述べたと伝わっているそうです。

太安万侶が幽閉されて 余生を送った場所は 島根県松江市の「意宇の森(おうのもり)」で阿太加夜神社
(あだかやじんじゃ)が建てられています。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
奈良県田原本町 鏡作り神社
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
磯城王朝が第十一代彦道主大王の時、支那では魏と呉が対立していた。魏の遼東では公孫渕が独立の気配を見せていた。
呉は これを応援しようと金銀財宝を積んだ船で公孫渕を訪れて独立させて 燕王国とした。
その贈り物の中には 沢山の銅鏡の材料と工人もいた。

魏は是に驚き 何度も公孫渕に使者を送り 復帰を求めた。是に応えて公孫渕は後の使者を切り 魏に復帰した。

行き場を無くした工人たちは、遼東から逃げ出したが、一部は和国の都萬王国に逃げた。しかし都萬国は魏へ朝献使節
を送ろうとしているのを知り、あわててヤマトの磯城王家へ助けを求めたと言う。

その工人たちが住み、「鏡作り部」として暮らしたのがこの神社界隈だと言う。
この公人たちが作った鏡が「三角縁神獣鏡」など ヒミコが魏から貰う銅鏡よりも 古い銅鏡である。
前回訪れた武内宿禰墓稜から発掘された鏡もその一枚だろう。

ちなみに 武内宿禰も都萬国の使節として魏へ行った帰り、帯方郡で銅鏡の材料と工人を大量に仕入れて
磯城王家へ渡したと言われる。

そしてこられの材料と 工人たちで 磯城王朝が300枚以上、登美家の大加茂津身が100枚以上作らせて
各地の豪族たちに配ったという。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この鳥居をくぐり、参道を進む。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

石の鳥居の先に 拝殿が見える。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

新しい看板で 神社の由緒を説明してある。それを見て仰天した。
なんと主祭神 は「彦火明」と書いてあるではないか。火明かり(ホアカリ)とは 徐福が石見の国五十猛海岸に
上陸した後、名乗った和名なのだ。

ちなみに 一旦秦国へ帰国した徐福が 九州北部浮杯の地へ再上陸した後は 饒速日(にぎはやひ)と名乗っている。
つまり この「鏡造り神社」の主祭神 は なんと徐福なのだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

新しい看板に この地で作られた銅鏡の写真が張ってあった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この説明看板の背後の「鏡池」から掘り出された「鏡石」が展示してあった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

是が鏡石の現物で 鏡作り部たちは、まず 鏡池で身を清めたあと 石の中央の窪みに銅鏡をはめ込んで固定し、
金剛砂と水をかけながら 鏡面仕上げをしたと書いてある。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

鏡造り部太刀が鏡の研磨の前に身を清めた鏡池である。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

奥へ進むと拝殿がある。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

額には「鏡造り大明神と書いてあるが、それと徐福とどんな関係があるのだろうか。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

本殿は 朱塗りの三連社だ。これも初めて見た。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

本殿の近くに古い由緒書き看板があった。これにも主祭神 がホアカリ つまり秦国からの渡来人徐福だと書いてあった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
考えてみると神獣鏡の神獣は 道教に基づいている。後に日本で流行った稲荷信仰のお狐様も 
道教の「西王母」の眷属神の狐が元になっている。

鏡作り部たちは 道教の神獣たちを彫っているので 道教の導師である徐福を尊敬するのは当たり前なのかもしれない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
と言うことで今回の旅も 「登美の霊畤」が今でも保存されている事、多神社の社家として多家が今も
続いていらっしゃると言う事、鏡作り神社の主祭神 は なんとあの出雲王国で 主王副王を同時に
殺害し、出雲国内で大暴れした秦国からの渡来人徐福だということなど 沢山の発見がありとても面白い旅でした。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
古代出雲王朝トップページへはここから戻れます。
http://yochanh.sakura.ne.jp/kodaiizumo/index.html
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



44 松江市南部の史跡を尋ねました。
  東出雲王家、向家応急のあった大庭町界隈の史跡、出雲大神、風土記の丘
  山城神社、岩坂陵墓参考地、それとカラス天狗広場です。

                                 
 2015年12月13日

古代出雲王朝は 東出雲王家向家と西出雲王家神門家が交互に主王
(役職名を大名持)と副王(役職名は少彦)をだして統治していた。

松江市大庭町には東王家向家の王宮があったが、物部軍東征による第二次出雲戦争で出雲軍は敗れて
王宮を物部軍に明け渡した。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
古代出雲王朝は 九州物部王家の第二次東征で 滅びます。西暦255年ごろです。

まず物部軍が瀬戸内海を東進し 吉備王国を攻めているときに 別働隊が日本海を北上し 
物部軍を率いるアケタツ王と宇佐王国軍を率いる兎の上王が 徐福の部下の穂日の子孫たちの引き入れで 
出雲軍の警備の手薄な場所から 怒涛のように侵入し出雲王家第十七代山崎タラシはついに降伏し 
西出雲王家は智伊宮の宮殿を明け渡します。

同じく物部軍の先鋒但馬守(1世紀末の朝鮮 辰韓の王子ヒボコの子孫)の日本海からの猛攻で 
松江市の田和山神殿を破壊され、続く物部十千根軍の日南町からの猛攻進入で 、東出雲王家も降伏し 
ここに十七代続いた 日本最古の王朝、出雲王朝は終わりを告げます。
物部十千根は魏にも朝献使節として行き、魏書に名前が出てくる物部族の一人です。

西出雲王家の王宮は進駐軍、宇佐軍の兎の上王の住居に提供され、西出雲王家神門の臣家は出雲市古志町の
久那子神社に移り住んだ。

東出雲王家の大庭の王宮は 物部占領軍に提供され、向井王家は八雲町熊野に移り熊野大社を建てて社家となった。

また旧王宮の建物は 物部進駐軍の入場とともに 千木が九州物部式の横削ぎとされた。
それまでの出雲王家や出雲豪族の建物は千木がすべて立て削ぎでした。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
しかし 苦労の末にやっと成立した征服王朝である物部王朝は イクメ(贈り名は垂仁)、オシロワケ(景行)、
ワカタラシ(成務)のたった三代で終わりとなりました。そして秋上家と名乗るようになった 
物部十千根の子孫の進駐軍は たちまち後ろ盾を失う。

そこで秋上家は 旧王宮を向井家に返却すると連絡したが、向井家は受け取らなかったという。

そこで秋上家は 建物を神魂(かもす)神社として 古代出雲王家の国教である 幸の神三神のうち親神である
クナト大神、佐毘売の命の代わりとして 名前を変えて イザナギ、イザナミの神を祀るのである。
ここにイザナギ、イザナミの名前が 初めて日本史に登場するのです。秋上家が作り出したそうです。

このときに 物部の神 フツノ御霊は秋上家により 神魂神社からオウ川の右岸の丘に移されて剣神社となった
(松江市八雲町日吉)。

このことを機に 向井家は 物部家つまり秋上家と協調するようになり、以後向家が資金を出した神社
(たとえば美保神社)などでは 複数の建物に出雲式立て削ぎ千木と 物部式横削ぎ千木を
併用するようになったそうです。出雲と物部の共存です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
その大庭界隈の遺構を見て回った。

まず旧王家の墓である 「出雲大神社」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

鳥居に掛かる額に「出雲大神」と書いてある。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

鳥居を潜りすぐ右にある手水。きれいに清掃されている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

よく整備された参道を進む。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

拝殿に到着。ここから墓石を拝むという。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ここから先は神域のため入れない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

巨岩がごろごろしている。

ここは王家の拝み墓で、実際の埋葬墓は天狗山山中の「岩坐」だという。
王家末裔の「斉木雲洲先生」の本によれば 古代出雲王家は第十七代「山崎タラシ」王で滅んだので
拝み墓の巨岩は十七個あるという。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
※この出雲大神の祀られている一帯は立正大学付属淞南高等学校の敷地内にあります。
学校の事務所で所定の手続きをしたうえで参拝させていただきました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
カラス天狗広場
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

神魂神社背後の山を登ると「カラス天狗広場」がある。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

石碑には「大山大智明大権現」と読める。
ここは旧出雲王朝国教のサイの神三神のうちクナト大神が祭られている大神山(今の大山)を
遥拝した場所つまり東王家向家の霊畤(れいじ 政事を行う遥拝所でもある庭)だった可能性が高いと思う。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

カラス天狗は平安期以降に発展した山岳修験道の神で 役小角(えんのおづぬ)とともに修験道の守り神として崇拝されたシンボルだ。
その昔の向家遥拝所がそのまま修験道の遥拝所となったのだろう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

こちらは以前訪れた神魂神社本殿。現存する最古の大社造で国宝だ。
その記録はこちらです。
http://blog.goo.ne.jp/yochanh1947-kodaiizumo/e/aa16ed0399a854fe21ff961e972b14f0
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
次は岩坂陵墓参考地
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この墓は国道432号線神納峠を下ったあたりにある。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

宮内庁の管理らしい。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

宮内庁や松江市教育委員会はイザナミの墓だといっているらしいが、ばかばかしいにもほどがある。
でっち上げの記紀に縛り付けられた挙句、架空の神イザナミのお墓ときたもんだ。

この墓は「出雲への征服進駐軍総師 物部十千根の墓だ。

たった三代で消えてしまった物部王朝のため 後ろ盾を失った物部十千根進駐軍の子孫、秋上家は 出雲の人々に快く思われていない
物部十千根の名前をいつまでも残しておくわけにも行かず、旧出雲王宮を「神魂神社」として「クナト大神、佐比売の命」
の代わりに「イザナギ、イザナミの命」を祀ったので十千根の墓をイザナミの墓と変えたという。

このでたらめな看板を見て 思わず絶句してしまった。 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
大庭の「風土記の丘」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

大庭にある風土記の丘から 岡田山一号墳の向こうに「神奈備野(かんなびぬ)」の山が見える。
東出雲王家向家で崇拝された神奈備山だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

雨の中岡田山一号墳に行ってみた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ここに石室があったらしい。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

発掘されたものの展示室へ行ってみた。
これは子持ち壷と表示されているが、壷ではなく太鼓らしい。小さな突起に皮を張り 叩く音で死者を
慰めたという。古代インドで使われた楽器だという。古代出雲族のふるさとと言われるドラビダ族の風習と言われる。
※弥生文明と南インド 大野晋著 岩波書店
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

こちらは「見返りの鹿」。大きいがかわいらしい顔だ。
出雲族の古墳増築技術が 大和の土師氏になったという。このあと訪れる菅原天満宮の菅原家や、学問の大江家は
土師家から分かれた 学問の家系だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この鉄剣に掘り込まれた銀象嵌の文字「額田部臣」が発見当時大きな話題になったらしい。

前回たずねた「神原遺跡」の古墳は 埋葬された武内宿祢の弟「ウマシウチの宿祢」が作ったといわれるが
彼は出雲王家から姫を嫁に向かえ、臣の性を名乗り その子孫は神原の地に住み続けて「額田部臣」を名乗ったという。

岡田山1号墳は 以前訪ねた「山代双子塚古墳」のすぐ近くに、しかもすぐ後に造られた。 
富家の伝承では 富家の王陵の隣に額田部の臣の王が葬られたという。

それは当時 都から赴任していた 額田部財王であります。出雲王家の太彦殿が分家の越前蘇我本家、振姫に養子に行かれ
家業を発展させて 人望を集められ 都に迎えられたのが オホド大王(継体)で その息子ヒロニワ大王(欽明)
の娘が 額田部大王(推古)です。

額田部大王の兄、豊日大王(用明)の息子が 上之宮太子(聖徳太子)でその息子が 額田部の臣財王です。
財王は 当時 弟の日置王と共に出雲の地に都から赴任していました。 出雲国意宇郡舎人郷の正倉役として
赴任されていて この地で生涯を終えられました。

そのお墓が 岡田山1号墳で 財王は生前から古墳を築いて寿陵としていました。

古墳埋蔵品は 松江市大庭の風土記の丘に展示されています。
風土記の丘見学記は このブログの 2015年12月13日の記事に載せています。

※松江市教育委員会の説明では このあたりの古墳(岡田山古墳群、双子塚古墳群)は出雲大社宮司の祖先出雲国造家
のお墓だと書いていて、案内人の叔父さんもそういいました。


穂日の子孫は 九州物部王家の第二次東征時に東征軍の別動隊(朝鮮人ヒボコの子孫田道間守などの軍)
を 出雲軍の警備の手薄な場所を 案内して出雲王家の滅亡に活躍し、その功績で出雲国造家に
してもらいました。

松江市教育委員会は馬鹿ですねえ。徐福の忠実な部下の穂日の子孫が 穂日が殺した
出雲王家の富家(向家)のお墓の中に 自分達のお墓を作るわけがありませんよねえ。

その案内人の叔父さんには 斎木雲州先生の本を読んで もっと勉強しなさいといっておきました。きょとんとしていました。

ちなみに穂日の子孫が今の出雲大社の宮司です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

風土記の丘展示室には 以前訪れた山代双子塚古墳の発掘物も展示されている。
この子持ち壷も古代インドのドラビダ族の使う子持ち太鼓と同じで 岡田山古墳の出土品と同じだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

以前の山代双子塚古墳の記録はこちらです。
http://blog.goo.ne.jp/yochanh1947-kodaiizumo/e/108c0ff4d9b310c0e997ad7d83dd51ed
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
山代神社
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

以前から大庭を通るたびに気になっていた「山代神社」を尋ねた。
この場所も「山代双子塚古墳」のすぐそばなので、たぶん古墳に葬られている「向 山代彦」が祭られていると想像していた。
モミジの散る石段を登っていく。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

立派な拝殿と注連縄だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

このアーチ型の渡り廊下を潜ると本殿があった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

大社造の立派な本殿だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

以前阿太加夜神社の境内でも見かけたが、石造や自然石に紙垂(しで)をお供えしたものが境内に沢山あった。
古代出雲王の17人と同じ17箇所かと探したがどう探しても13箇所しかなかった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

境内の末社に幸神社がある。これは古代出雲王朝の国教の幸の神三神を祀っているのだろう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

由緒書きが掛けてある。古くて良く読めないが やはり「山代彦(日子)命、大国主命」と読める。
やはりそうだった。山代双子塚古墳に葬られた旧王家の向家当主「向 山代彦」を祭っているのだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

神社入口には 宮自宅がある。こちらのお宅も由緒正しく見えるので表札を拝見すると「北」家であった。
てっきり 向家か富家と思ったが違っていた。このお宅も出雲王家の血を引くお方なのだろうか。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
古代出雲トップページへはここから戻れます。
http://yochanh.sakura.ne.jp/kodaiizumo/index.html
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー




43.菅原道真の生家に建てられた「菅原天満宮」と野見の宿祢陵




菅原道真の生家に建てられた菅原天満宮と彼の祖先の野見の宿禰 の御陵を訪ねる 2015年12月13日

2015年12月16日 22時43分36秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて

菅原天満宮と野見の宿禰 御陵 島根県松江市来待町菅原

九州物部王家の東征で、イクメ王より一足先に日本海を北上し、出雲王国の田和山神殿を破壊したあと


魏から貰い受けた八本の錦の御旗(八幡の語源となる)をかざして大和入りした田道間守(朝鮮渡来人


ヒボコの子孫)は、自分がヤマトの王のように振舞う。

遅れてやってきたイクメ王は 田道間守に手を焼き、自分が倒したはずの「旧出雲王家」に助けを求める。

 

物部王家に倒された出雲王家の内 東出雲王家の富家(とびけ)は名前を向家に替えていた。イクメ王から

出雲進駐軍の司令官秋上十千根を通じて出兵を要請された向家当主の太田彦は 出雲王家を滅ぼした物部王家が

憎かった。しかし出雲王家の神聖な田和山神殿を破壊した朝鮮系の 田道間守はもっと憎かった。

 

そこで向家当主の太田彦は 名前を富(とび)の名前を野見(のみ)と変えて 野見太田彦として 神聖な田和山神殿を

破壊した 渡来朝鮮人卑ボコの子孫の田道間守に復習する為に この助けを聞き入れて 出雲兵を

引き連れてヤマトへ進軍し、田道間守を打ち破る。



この戦争が 記紀では当麻蹶速(たいまのけはや   ※田道間守が領地にして君臨していた場所はタジマの名前が訛り

タイマと呼ばれて当麻の字が当てられた)と野見の宿祢(田道間守の敗走に喜んだイクメ王は野見太田彦に物部王家の

重鎮の称号である「宿祢(すくね)」を与えて太田彦は野見宿祢と呼ばれた) の相撲勝負のおとぎ話に替えられてから、

後世にはこれが大相撲の起源とされてしまったから記紀の作り話も恐ろしいことに発展したものである。



ヤマトに住み着いた 野見の宿禰 の子孫の出雲族は 古墳築造技術に優れていて イクメ王皇后のヒバス姫の

御陵を築き、その後土師氏(はじし)と呼ばれ 土師家を名乗る。

 

そしてその子孫からは学問の家系の菅原家や大江家(平安時代の歌人大江匡房やその子孫軍学者 大江時親)が

生まれたと言う。ちなみに大江家が毛利元就の祖先とされている。

 

※田和山神殿跡については 2014年6月16日のこのブログの記事に載せています。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

来待町「菅原」の地名がのこるこのあたりは山の中だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この鳥居を潜ると菅原天満宮の参道だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ここにはもともと向太田彦(野見の宿祢)のお墓があったという。


野見の宿禰 は大和で田道間守の軍勢を打ち破り、暫く大和に留まった後、イクメ王から拝領した土地を
息子らに任せて出雲へ凱旋する。その帰路に播磨の出雲系の豪族の家に招待されてご馳走が振舞われた。

しかしその家の使用人に 朝鮮人ヒボコの家来の子孫が働いていて 食事に毒を盛られて翌日にその地で
急死したと言われる。

野見彦の遺体はその地で埋葬され、大勢の出雲族が出雲からやってきて、野原に整列して 手渡しで石や土を運び 

墳墓を作ったという。それでその地は大勢の人が野原に立ち並んだ事から「立つ野」と言う地名になったという。


遺体の一部は 出雲に持ち帰られて この地に葬られた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
時代が下がり、野見彦の子孫から土師家が出来て そこからさらに菅原家と大江家が出来た。


出雲国庁に 国司として滞在していた菅原是善(これよし)が、この地に自分の祖先の野見彦の墓に
参拝に来たとき、案内してくれた地元の女子が 利発なのに気に入り寵愛して 生まれたのが道真だという。

道真が6歳のときに都から迎えが来て 親子は都へ行き 道真は菅原家の子として育てられ、長ずるにおよび
天賦の才能が開花して頭角を現したらしい。

 

その後あの日本史の汚点である陰険な藤原一族(その子孫はしぶとくも千年以上皇室を食い物にして生きながらえて 

近衛文麿はじめ現代まで続いている)の陰謀に陥れられて無念の死を遂げられた事は 周知の事である。

 

その後宮中で起こった奇怪な物の怪事件の連続に藤原一族は 菅原道真の祟りだと恐れおののき

彼を学問の神様、天神様として全国に祀るのである。



彼の死後 この生地に建てられたのが 「菅原天満宮」で、歴代松江藩主により、守られ続けて来たという。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

長い石段をゆっくり登っていく。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

石段を登ると正面に拝殿がある。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

拝殿も立派な建物だ。松江藩の保護を受け続けていただけはある。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

本殿はなぜか大社造りにはなっていない。出雲王家の血を引くお方なのに何故だろう。

千木は出雲式の縦削ぎではあるけど。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

参集殿では丁度近所の方が集まって 25日の「秋の大祭」の準備をしている最中だった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「野見の宿禰」 の御陵
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

境内の脇に石段があり、それを登っていく。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

こじんまりとした墳墓があり、野見の宿禰 つまり向太田彦の御陵だという。
雨も激しくなってきたので、御陵にお参りした後 立ち去った。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
太田彦の古墳は 島根県飯南町野見野にもあります。
そこを訪ねた記録はこちらです。
http://blog.goo.ne.jp/yochanh1947-kodaiizumo/e/aa16ed0399a854fe21ff961e972b14f0
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー







42 その子孫から数々の帝を出した武内宿禰の御陵 雲南市神原神社へ参拝しました。



武内宿禰の御陵に参拝しました。 2015年11月13日 雲南市神原神社と古墳

2015年11月17日 13時50分55秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて
古代史の舞台で重要な働きをする一人に武内宿禰がいます。
九州物部王家の第二次東征で、最初物部イクメ王に着いていた彼は 都萬豊連合王国の女王豊玉姫(魏書に書かれた
2番目のヒミコです)に粗末に扱われて 物部軍から離反して大和の磯城王朝側に付きます。
しかし武内宿禰は磯城王朝とともに イクメ物部軍に敗れて出雲に逃れ 旧出雲王家の東出雲王家の向家に保護を求めます。

何故なら 武内宿禰の祖先の高倉下(初代ヤマト大王天の村雲の腹違いの弟)は 出雲王家の大屋姫と徐福
(記紀では素戔嗚と書かれた)の長男五十猛(後の名を香語山)との間に生まれたのです。だから武内宿禰は出雲王家の
血を引いているのです。

そして彼は向家の保護の下で松江市の意宇の森で生涯を終え御霊は 松江市竹矢町の武内神社に祀られています。

また武内の宿禰の子孫からはソツ彦を含め大王がたくさん出ているので 武内宿禰は 全国各地の神社でも祭られています。

その武内宿禰の御陵の神原神社へ行ってきました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

神原神社は島根県雲南市加茂町神原にあります。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

神社名の石碑はかなり古くて読みづらい。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

二つ目の鳥居の先に神門が見える。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

神門の注連縄も大きくて立派だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

神門を潜ると広い境内だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

拝殿の注連縄も大きくて立派だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

拝殿の中を移写させていただいた。綺麗に整理されている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

本殿は大社造のようだ。千木も縦削ぎになっている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

1972年の斐伊川水系の河川改修工事で 河川敷にあった方墳が発掘調査された。その石室を移設保存したのが
境内にあり、屋根が掛けられている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

出土品の説明写真。土器や剣など多数出土したと書いてある。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

魏書に書かれた二番目のヒミコが魏から貰った三角縁神獣鏡が出たと書いてある。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
これは明らかな間違いである。三角縁神獣鏡は支那大陸では一枚も出土していない。
中国の歴史学者は三角縁神獣鏡は魏の鏡職人を連れて来て 和国で生産されたものだとしている。つまり和国製なのだ。

武内宿禰は魏からの帰り、朝鮮の帯方郡経由で帰国しているが そのとき帯方郡で多数の銅鏡職人と銅鏡の材料を
大和磯城王朝のミチヌシ王に頼まれて 購入して帰国している。

彼らが住んで銅鏡を作ったのが 奈良県磯城郡田原本町の鏡作り神社の周辺で「鏡作り部」と呼ばれた。
そこで 磯城王朝や武内宿禰は 大量の銅鏡を作り 磯城王朝に付く豪族たちに配ったと言う。

つまり三角縁神獣鏡は 和国製なのだ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

石室の内部も復元されている。武内宿禰が安置されていたところだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

石室の保存場所の隣には 遊具がおいてあり、付近の子供たちが遊びに来るのだろう。
子供たちの楽しそうな声が境内に響き渡り 御陵で武内宿禰も喜んでいるのかもしれない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
この古墳を作ったのは 武内宿禰の腹違いの弟 ウマシウチの宿禰である。
彼は山代の国加茂付近にいたが、武内宿禰が出雲王家に助けられて 意宇の森に住んだのを知り、
加茂町から沢山の人を引き連れて移住して来た。

そのためこの付近も 加茂町と名が付いた。彼は出雲王家の姫と結婚し 臣の称号をもらい 
額田部の臣と名乗り その子孫たちも この地に住み続けた。

彼が兄の古墳をこの地に 方墳の形で作ったという。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ここで武内の宿禰について 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
九州物部王家のイ二エ王は232年、築紫の国から南進を開始して 日向の国に都萬王国を打ち立てます。
そして「大和の磯城王朝を倒し、新しい大和国家を打ち立てる」と宣言したから全国から豪族が都萬国に集まってきました。

その中の彦布都押しはイ二エ王に特に重鎮として 扱われます。
彦布都押しは 紀伊の国国造家の山下影姫との間に 物部武内彦を設けていて彼も一緒に参上します。

武内彦もイ二エ王に尊重され物部の重鎮である称号「宿禰」を貰い 物部宿禰武内彦としてイ二エ王にかわいがられます。
そして 短命に終わったイ二エ王の先妻皇后 阿多津姫(記紀では咲くやこの花姫と書かれました)の皇子 イクメ皇子とともに活躍します。

イ二エ王(贈り名は崇神)は 宇佐の豊王国の豊玉姫と再婚し 都萬豊連合王国を形成しますが 東征直前にこの世を去ります。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
豊玉姫皇后は魏書に書かれた二番目のヒミコで、イ二エ王亡き後女王としてイ二エ王の意思を継ぎ 
物部豊連合王国の皇后として東征を進めます。

また彼女は 魏の大使館である 伊都国(今の福岡県糸島市付近)に駐在している ティシュンにより、親魏和王として
直接肩に絹の襷を掛けて貰い 親魏和王の金印を貰った唯一の和王です。絹のロングドレスで正装した彼女は
大いなる威厳を示したと魏書に書かれたそうです。
しかし豊玉姫皇后には 武内彦は尊重されませんでした。

彼女は数回にわたり 魏へ朝献使節を送りますが、イクメ王、田道間守などは団長としていった後 魏から中朗将の位をもらいます。

しかし武内彦は 団長としていったにもかかわらず無官で帰されます。有り余る彼の才能を恐れた豊玉姫がイクメや我が子豊彦
(記紀では豊来入彦とかウガヤ葺き合得ずと書かれました)より偉くならないように 位を授けるように親書に書かなかったからです。

落胆した 武内彦は 祖先の地 高倉下の地である紀の国に引き上げて「武内宿禰家」を名乗り 西側陣営から離れます。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
この当時和国は出雲王国を除き完全に支那の属国状態でした。しかし記紀はこのことに一切触れていません。

イクメが 磯城王朝最後の道主大王との戦いに大和で苦戦しているときに 武内宿禰が
紀の国から大軍を引き連れて東軍磯城王家に参戦し 俄然東軍が有利になります。

そのときに ヒミコ豊玉姫は東征の途中で安芸の宮島で病気で亡くなったのですが 魏の和国駐在武官の張正により 
ヒミコの娘のトヨ姫がヒミコの後継者に指名されます。魏書にかかれた「台与(とよ)」のことです。
トヨが女王に立ち再び和国の戦乱は納まったと書かれた トヨです。

ちなみに記紀にはトヨは豊鍬入姫とか 若ヒルメムチと書かれた姫です。

イクメ王の軍にトヨ姫、豊彦の豊国軍が合流し俄然優勢になった西軍は ついに道主大王と武内宿禰の軍を打ち破り、
道主大王は 娘のヒバス姫を差し出して伯耆国造として武内宿禰とともに伯耆の国へ引き下がります。
晴れて大和の大王となったイクメの皇后にヒバス姫がなりま す。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
伯耆の国で暮らしていた 道主王と武内宿禰のところへ ヒバス姫皇后から急使が来て「イクメ大王が刺客を放ち武内宿禰を殺す」というものでした。

あわてた武内宿禰は 西へ逃げ 出雲王家に助けを求めます。向井家は彼を匿い 意宇の森に館を建てて住まわせます。
(今の松江市阿太加夜神社です)

大和の大王となったイクメ大王は 旧出雲王家にまでは刺客をもぐりこみさせなかったようです。

以前 大和への東征の途中で 自分が大和の王となろうとした田道間守を イクメは物部十千根や旧出雲王家に助けを求め 
富家の大田彦は「野見大田彦」と名前を変えて大和へ軍勢を連 れて進撃し 田道間守を打ち破り イクメ王を助けます。
田道間守が神聖な「田和山神殿」をぶち壊した恨みを晴らすためです。

(とび を のみ と名前を変えたのは 大和内部にまだ出雲王朝への反抗心を持った豪族がいたからだといわれています。)

感謝したイクメ大王は大田彦に物部の重鎮称号「宿禰」を与えます。
記紀ではこの話が 当麻蹶速(たいまのけはや)と野見の宿禰 の相撲取りの話に書き換えられて 大相撲の起源だというばかばかしい話に置き換えられました。

櫻井市の相撲神社には大相撲力士と理事全員が集まり 相撲感謝祭をしたとその神社を訪れたときに知り 思わず噴出しました。

また田道間守が地盤とした大和葛城地方は タジマの地名が残り 近鉄タジマ駅となったり、タジマが訛り「當麻たいま」となり
當麻寺の地名にも残っています。最近當麻寺のある當麻町に「相撲博物館」なるものが出来て あまりのばかばかしさに唖然としました。
記紀の呪縛は 恐ろしいものです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ここで別のヒロインが登場します。朝鮮辰韓から渡来した辰 韓の王子 ヒボコの子孫 オキナガタラシ姫です。
彼女は 物部王家のワカタラシ大王(成務)に嫁ぎます。

丁度辰韓が滅び新羅が興ります。オキナガタラシ姫(神功皇后)は新羅の国へ辰韓の財産の分与を要求しますが 新羅は無視します。
彼女は夫ワカタラシ大王(成務)に新羅への出兵を要求しますが、ワカタラシは断り二人は疎遠になったといいます。その後ワカタラシは豊前の国で戦死します。

そこで彼女は次に豊前の豪族中津彦に朝鮮出兵を持ちかけますが彼も断り そのうち彼も戦死します。(記紀は短命に終わった物部政権を隠すため 中津彦を
格上げして仲哀大王としますが 彼は皇后の部下であり大王ではありません。)

次に彼 女が選んだのが 日向の国の王武内ソツ彦です。彼は日向ソツ彦と呼ばれていました。ソツ彦は彼女の要請を快諾し二人は一緒に住みます。
ソツ彦は彼の人脈を生かし 日向の水軍はもちろんのこと 故郷の紀伊や熊野水軍をはじめ 丹後の海部家、尾張の尾張家など
全国から水軍を集めて オキナガ姫とともに朝鮮へ出兵します。

海上に浮かんだ夥しい軍船を見て 新羅王は 戦わずして降伏し、毎年多額の税金と人質を送ることを約束します。
和国の大水軍はついでに 百済、高句麗も攻めて降伏させ、三韓から年貢と人質をとる約束をします。俗に言う「神功皇后の三韓征伐」です。

大成功を収めたソツ彦は河内の国恵我之荘に住まわれ 実質的な大王 として暮らされた。彼の古墳が羽曳野市恵我之荘大塚山古墳です。

オキナガ姫は朝鮮から帰るとともに出産されたといわれます。記紀では中津彦(仲哀)の子供で ホムタ大王と書かれましたが、出産時には 
既に中津彦は戦死しているので ホムタ大王は当然ソツ彦の子供です。

しかし ホムタの君は7歳で夭折されたので、オキナガ姫と親交のあった 下野の国国造家(豊来入彦の子孫です)の竹葉瀬の君を秘密裏に
養子にしたのが ホムタ大王といわれます。オキナガ姫に世継ぎがいなくなれば 朝鮮から税金が入らなくなるからです。

その後、朝鮮から入る莫大な税金が 和国を豊かにしたといわれています。各地の古墳造営にもそのお金が使われました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
またソツ彦と日向髪長姫との間には、平群の臣都久、蘇我の臣石川、巨勢の臣小柄、紀の臣角など怱々たる人物が現れています。

ソツ彦の弟 武内臣若子の娘はオオサザキ(仁徳)大王に嫁ぎ イザホワケ大王を生んでいるし、蘇我の臣石川の子孫の蘇我家からは
オホド大王(継体)やその子 カナヒ、押楯、が大王となり オホド大王と 手白香姫の間の ヒロニワ大王が その後現在まで続く
帝の一族なのです。

と少々話が長くなりましたが この神原古墳の上にもともと建てられていた武内神社は とんでもなく和国の歴史にとり 
重要な神社なのです。今は神原神社と名前が変わっていますが。

そして松江市竹矢町の武内神社は 記紀の作成を指示した 時の最高権力者藤原不比等に逆らえず 主祭神 は 仲哀、応神、神功皇后と
平凡なものになり、隣の館に かろうじて武内宿禰が祭られています。









41. 出雲周辺の大証の神社を訪ねました。
   出雲井、神奈備、伊保美、そして長浜神社

                          2015年11月13日

出雲市内の 出雲大社周辺の 古代出雲王朝ゆかりの神社を尋ねた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
意保美神社
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

韓竈神社駐車場の「出雲市観光案内看板」に「サルタ彦を祀る神社」と書いてあったので
帰りに立ち寄った。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

石段を登っていく。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

正面の拝殿に額が架かっている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

その横に祭神が書いてあり、読んでみてびっくりした。サルタ彦と天の菟津女の命と書いてある。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
古代出雲王朝の国教は「幸の神三神」だ。
クナト大神、佐毘売の尊の夫婦神とその皇子神サルタ彦だ。

てっきりサルタ彦単体で祀ってあると思いきや、なんと天の菟津女の命と共に祀ってあり唖然とした。
記紀では サルタ彦が峠で神様のご一行を待ち構えていたら、先頭を歩いていた天の菟津女の命が
サルタ彦に胸を露にして 色気を見せたら、サルタ彦は 彼女を伊勢の椿大神社へ案内した。とされている。

つまりこの社は 記紀が出た後、時の最高権力者 左大臣藤原不比等の命令で編集された記紀の内容に逆らえない
出雲の人々が、やむなく サルタ彦と共に天の菟津女の命を祀ったのだろう。

出雲族の無念さが伝わってきそうな神社だ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

本殿は一応大社造を装っているが、千木は物部方式の横削ぎだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

境内には塞の神と山の神が祀ってあった。塞の神はサルタ彦が変化したもので、道祖神にもなった。
村はずれや峠に安置されて、悪霊の侵入を防いだり、サルタ彦の鼻の形から男性自身を表して
男女和合の神とされた。

まあ形を変えたサルタ彦も祀られていて 安心した。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
出雲井神社
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

出雲大社前の弥山広場に車を止めて歩き出す。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

国道山側の集落の真ん中にこの社はあった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

こじんまりしたお社だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

立派な千木が付いている。出雲式の建て削ぎだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

岐神(くなどのかみ)を祀っていると書いてある。
久那土の神または岐の神とは 道の分岐点や峠に祀り、悪霊の侵入を防ぐ神、また「塞ぐ」意味から
男女和合の神ともされている。

つまりサルタ彦の神なのである。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この小さなお社は 実は大変な神社なのである。 

古代出雲王家の大和の分家磯城家からさらに別れて伊勢に移住した宇治土公家(うじとこけ)
はサルタ彦を祀るべく この出雲井神社からサルタ彦を分祀されたという。

その神社は 「伊勢一宮」と言われる「椿大神神社」なのだ。
その訪ねた記録はこのブログにもあります。
http://blog.goo.ne.jp/yochanh1947-kodaiizumo/e/81a4abe591b1cea2022fd5bd731cacc6

あの大きくて立派な 伊勢一宮の椿大神社は「サルタ彦大本宮」と称しているが 元をただせば
この出雲井神社から 分祀していたのだ。
今は小さな祠がひっそりと佇む。

※岐神(くなどのかみ)とは サルタ彦とされていますが、私個人的には 発音がどうしても
「クナトの神」つまり古代出雲の国教の神様で 大神山と呼ばれた今の大山に祀られたクナト大神
の事に思えてならない。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
神奈備神社
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この神社も分かりにくかった。一畑電鉄高浜駅東にあり、車一台通るのがやっとの道沿いなので
近くのコンビニに車を止めて歩いていきました。(コンビニでちゃんと買い物しました)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

境内はこじんまりとして 綺麗に整備されている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

正面には拝殿がある。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ガラス越しに中を写させてもらった。今でも地区の行事がかなりあるようなので安心した。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

境内からも 入口の鳥居越しにも見えるのが 出雲北山の鼻高山(はなたかせん)だ。

サルタ彦のサルタとは古代インドのドラビダ語(現在は主に南インドのタミール人が使っている
タミール語に近い)の「鼻が長い」とか「鼻が大きい」とか言う意味で つまり今のヒンドゥーの
神様の像神様のガネーシャの事なのだ。

古代出雲族は 南インドのドラビダ族が アーリア人のインド侵入に伴い押し出されて 
北へ逃れた一族だと言われていて(南へ逃れたのがタミール人です)、ブリアートモンゴルと
混血を繰り返しながらシベリアから南下して 出雲の地に落ち着いたと言われています。

他にもドラビダ語から日本語になった言葉が タタラ、カネなどたくさんあります。

つまりこの神社は この地から サルタ彦の神を祭った神奈備山の鼻高山を遥拝した場所なのです。

しかし今の御祭神は サルタ彦とは縁もゆかりも無く、アマテラスとか大己貴の尊とか書いてある。
残念な事です。せっかく斎木雲州先生に教えていただいたのに。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
長浜神社  出雲市西薗町 上長浜4258
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この神社は大きくて 由緒ある神社なのに ネットの地図マピオンに乗ってなくて探すのに苦労した。
このページの神社はすべてマピオンに載っていたのに。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この神社は 国引き王として知られる 古代出雲王朝第六代主王の「八束水臣津野」(やつかみずおみつぬ)
を祀っている神社なのだ。

そしてこの神社が建っている「薗の長浜」は出雲族にとり、忘れられない地名なのだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
徐福の部下とその息子夷鳥は 秦国から連れて来た沢山の海童たちを集めて この薗の長浜に
出雲族の崇める鰐(わにー鮫のこと)を引き上げて 当時の主王八千矛王をおびき出し、
王が 海童たちに鰐を開放するように言うと たちまち海童たちは八千矛王を取り囲み、船に乗せて
日本海に面した猪の目洞窟に幽閉殺害したのである。

つまり古代出雲第八代主王 八千矛王は この薗の長浜から姿を消されたのである。
記紀では 王は舟をひっくり返して その中にお隠れになったと書き 穂日たちの殺人を隠したのだ。

ちなみに穂日の子孫が出雲国造家となり、今の出雲大社宮司の家系に続く。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

長い参道を進んでいく。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

鳥居の先にもまだ石段がある。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

おおきくて立派な神門だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

境内の正面に拝殿がある。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

立派な しめ縄の拝殿だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

額に祭神が明記してある。真ん中が臣津野で左も「おみつぬ」であり、同人だ。「布帝耳」は不明だが
出雲王十七代の中にもいらっしゃらないし、おそらく 同じ人なのだろう。

この臣津野王は西出雲王家神門臣家の方で 第七代主王は東出雲王家向家の天の冬衣王そして
第八代主王が西出雲王家神門臣家の方で 悲劇の八千矛王(記紀では大国主と書かれた)である。

つまり臣津野王は 大国主ー八千矛王の祖父なのだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

本殿はもちろん正しい大社造で 千木も出雲式の楯削ぎだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

だいぶ探し回ったが 本殿の裏手に 有名な三つ鳥居があった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
三つ鳥居は 古代出雲国教の塞の神三神(クナト大神、佐毘売の命、サルタ彦)を祀る鳥居形式である。

そしてこの鳥居形式は 大和にも移されて 魏書にかかれた二番目のヒミコの宇佐豊玉姫と
九州物部王のイ二エ王(贈り名は崇神)との間の姫 トヨ姫(豊来入姫で 記紀では豊鍬入姫とか天の菟津女の命
と書かれた姫巫女で魏書で台与トヨと書かれた)が大和で月読みの神を祭った 檜原神社(奈良県櫻井市三輪の大神神社裏手)の
三つ鳥居にもなっているのである。

そして大神神社の本殿横にも立っていると言われるが 本殿へはなかなか上がれないのでまだ見ていない。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

三つ鳥居の左にクナドの神が祀ってある。夫婦和合の神も安置されている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

こちらは夫婦の神と書いてある。つまり夫婦和合の神ならば サルタ彦なのであろう。
ちなみに右の鳥居には納め社とかいてあり、家内安全、災難を防ぐ神と書いてあるので 
鳥居の三つともサルタ彦を祀っているのだろう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

境内の一番奥に三つ鳥居があり、分かりにくかった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

社務所で 臣津野の神のお札を頂いたときに写させていただいた「国来、国来(くにこ くにこ)」と叫ぶ
国引きの神 臣津野王のお姿だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

拝殿横に写真が飾ってあり、良く見ると ソフトバンクの携帯電話の宣伝の犬のお父さんたちも
撮影に訪れたそうだ。この神社の神主さんもうれしそうだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
古代出雲トップページへはここから戻れます。
http://yochanh.sakura.ne.jp/kodaiizumo/index.html
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー










40  徐福を祀る出雲市韓竈神社がなんと縁結びの神だなんて





徐福(素戔嗚)を祀る韓竈神社が縁結びの神様だなんて 2015年11月13日  

2015年11月18日 09時56分35秒 | 古代史の舞台を訪ねて
大阪の自宅でテレビを見ていたら、島根県出雲市の山中の「韓竈神社(からかまじんじゃ)」を放映していた。
占い師の江原 啓之氏が ここを訪ねて「ここは凄いパワーの満ち溢れているスポットだ」と言ったとかで
一気に有名になったらしい。それがいつの間にか 「若い女性の間で「縁結びの願いがかなうパワースポット」
になったという。その韓竈神社へ行ってみた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
韓竈神社 出雲市唐川町後野
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

駐車場の周りは茶畑が広がる山間の谷だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

林道入口に「車で入らないでください」と書いてある。15分ほど林道を歩いていく。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

周りの黄葉を楽しみながら歩く。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

やがて鳥居が現れた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

韓竈神社の説明看板だ。素戔嗚が(秦国から)朝鮮半島へ渡り、(出雲に)やって来たと書いてある。
韓竈とは朝鮮からわたって来た釜のことだと書いてある。

この韓竈の竈と言う字は特殊だ。以前物部の五瀬を祀る和歌山市の竈山神社の竈の字と同じだ。
五瀬は徐福の子孫なので、竈の字は徐福か物部と関係があるのかもしれない。
秦国人の道教信仰と関係があるかも知れない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

鳥居を潜る。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

古い石段が続く。苔むして滑りそうな場所もある。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

暫く石段を登って振り返ると 鳥居が小さく見える。石段はまだまだ上へ続くようだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

息を切らしながら石段を登っていく。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

巨岩を削った階段が現れて、その先に木の根階段が続く。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

そこを曲がると 突然岩の隙間が見えた。ここを潜るようだ。割れ目の向こうに石垣が見えている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

割れ目を潜り抜けると 石垣の上にお社が見えた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

なんの看板も無いが、ここが韓竈神社のようだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

沢山のノートが積み上げられていて、パラパラっとめくると沢山の方が全国から参拝に訪れているようだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

再び岩の割れ目を潜って下山する。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

鳥居の脇に 竹の杖がたくさん置いてあったが、杖を借りてきて正解だった。
石段は長くて急で、滑りやすく とても危険だった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

鳥居の先に標識があり、それには「ここを進むと出雲北山弥山登山口」と書いてある。
いつかここから弥山へ登ってみよう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

その横には「岩船」と書いた巨岩があり、徐福(素戔嗚)がこれに乗って朝鮮からやって来たと書いてある。

徐福の子孫の秦国人たちは 巨岩の舟が好きなようだ。徐福の子孫である九州物部王家の第二次東征で
イクメ王が河内から大和へ入るとき 越えた山は「イクメ」にちなんで「イコマ」と名づけられた。 
その山中にもイクメが乗って来たという「岩船」が祭ってある。交野市の「岩船神社」だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

紅葉のちらほら見える林道を歩いて駐車場へ戻った。
引き返す途中で 沢山の若い女性が 雨の中三々五々林道を歩いて韓竈神社へ向うのにすれ違った。

紀元前3世紀末、沢山の海童たち(秦国人の青少年男女)を引き連れて石見海岸の五十猛海岸に上陸し、
部下の穂日やその息子夷鳥、それに連れて来た海童たちと出雲王国内で 大暴れして
果ては 第八代主王八千矛王、第八代副王八重波津身少彦を相次いで幽閉殺害した徐福が
縁結びの神様なんて どこでどう間違ったのか、恐ろしい事だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
徐福(素戔嗚すさのお)のこと
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
徐福ですが、日本書紀の神代の項に「素戔嗚の命の子の名前を五十猛(香語山)の命という」とあります。

五十猛は徐福と古代出雲王家の高照姫(第七代主王天の冬衣の姫皇女)との長男なので徐福が素戔嗚のことだと分かります。

また記紀のなかでは 徐福をスサノオと書きその娘をスセリ姫として 大国主と結婚させるという無茶苦茶なストーリーになっています。
徐福の娘という スセリ姫とか 徐福とけっこんしたという 稲田姫とかクシナダ姫とかはすべて記紀で作られた架空の人です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

(架空の人を作り上げるのは記紀の特徴で だから記紀は歴史資料ではなく 歴史小説といわれるゆえんです。
このほか 神武やヤマトタケルなどが作られた人物で また 短命に終わった物部王朝を隠すために 記紀は 
一度も大和へ来たことのない九州物部のイ二エ王(贈り名は崇神)を大和の物部王朝の大王としたり、
オキナガタラシ姫(神功皇后)の部下の豊前中津彦を仲哀大王と格上げしたり さまざまな作り事があります)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
紀元前三世紀末に徐福は 部下の穂日を出雲王国に遣わし 上陸の許可を得ます。
このときの出雲王家への献上品の銅鏡や銅剣が長く出雲王家に残されていたといいます。

石見の五十猛海岸に上陸した徐福は 和名を「火明り(ホアカリ)」と名乗ります。
そして第七代主王の「天之冬衣」の姫君高照姫と結婚し 長男五十猛を設けます。
だから 徐福の娘と大国主が出会うはずは無いのです。

ちなみに大田市の五十猛海岸は「素戔嗚が上陸した地点」として観光名所になっています。
私も一度訪ねました。ブログにも書いています。
http://blog.goo.ne.jp/yochanh1947-kodaiizumo/e/d07ad4f17ba2956bc314a0a50a26fa5b

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
徐福と穂日その息子夷鳥と海童たちは 出雲王国内で大暴れして 村々の信仰の竜蛇神などを叩き壊して回ったそうです。
挙句の果ては、出雲王国の主王(八千矛ほ記紀では大国主)、副王八重波津身(記紀では言代主)を相次いで幽閉殺害します。
二人が幽閉殺害された場所の記録はこちらです。
http://blog.goo.ne.jp/yochanh1947-kodaiizumo/e/f4ea65d35648dfaec19543d2603822d3

一旦秦国に帰国し 更なる資金と 海童たちを秦の始皇帝からもらいうけた後 二度目の渡来時には佐賀県の浮杯に上陸します。
このことは魏書に詳しく書いてあるそうです。再船出した場所もシャントン半島です。

そして 再上陸した徐福は 和名を饒速日(にぎはやひ)と名乗り、出雲王家の九州分家 宗像家の市杵島姫と結婚し、
次男穂穂出見(ほほでみ)と長女穂屋姫を設けま す。

そしてそのときには すでに大国主たちは 徐福の部下穂日と穂日の息子のヒナドリたちに幽閉殺害されていたので
徐福の娘と大国主が出会う事はありえないのです。

ちなみに徐福の長男五十猛の家系から初代大和大王の天の村雲が出ます(磯城王朝)。
しかし腹違いの次男の穂穂出見の家系から出た 九州物部王家のイクメ王に倒されます。

イクメ王は大和を平定し 大和の大王となり イクメ大王(贈り名は垂仁)となります。


その話が「山幸彦と海幸彦の兄弟喧嘩」の御伽噺になるのです。つまり兄が負けて弟の家来になるのです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
また記紀では 素戔嗚は乱暴物に書かれます。徐福や海童が出雲王国内で暴れまわったからでしょう。
「各地の神聖な場所に 糞尿をばら撒いたり、姉のアマテラス(古代出雲で信仰された太陽の女神です)の部屋に
馬の皮を剥ぎ取り、投入れてそのためアマテラスは 怒って窟の中に隠れて 世の中が暗黒になります。

その太陽の女神を窟から誘い大ためにさまざまな踊りを 天の菟津女の命(彼女は実在の宇佐王家のトヨ姫
つまり豊来入姫ー記紀では豊鍬入姫です)が踊ったりしたお話が作られました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
そんな暴れ者の 殺人者の徐福が縁結びの神様だなんて どこでどう間違ったのでしょうか。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー