支那の歴史書には「ヒミコ」なる女性がたびたび登場しますが、記紀では不自然なくらい
徹底して「ひみこ」を無視しています。
記紀を書かせた持統女帝や右大臣藤原不比等らにとって なにか まずいことがあるのでしょう。
それに「ひみこ」の時代はヤマト磯城王朝の時代で 和国は完全に支那の属国状態でした。
それをよしとしないのも ヒミコを無視する要因でしょう。
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ヒミコは 登場順に
1.モモソ姫 2.宇佐豊玉姫 3.サホ姫 4.豊姫 5.大和姫 です。
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このブログで 現在 いわゆるヒミコについてのまとめを行っています。
そこでこのページでは それぞれのヒミコの詳しい説明や その時代背景は簡単に触れることにして
次回の「ヒミコのまとめ」に詳しく書こうと思います。
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1.サホ姫
まずサホ姫のゆかりの地を訪ねました。
サホ姫はヤマト磯城王朝第十代大王 日子坐(ひこいます、彦坐とも書かれる)の姫皇女です。
兄が佐保彦と彦道主です。
日子坐大王の皇子 彦道主(彦美知宇斯とも書かれる)が和邇の地で第十一代大王として政治を行います。
ちょうどそのころ 九州物部王家のイクメ王が第二次東征で 瀬戸内海を進み 吉備王国を制圧して
難波に上陸します。
そして生駒山地を超えて大和へ侵入しようとしますが 生駒山地の東側で 佐保彦の大軍がイクメ王の行く手を
阻みます。そのため イクメ王は山中に永く留まり その山はイクメ王の名前からイコマと名付けられます。
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困り果てたイクメ王は 佐保彦、サホ姫に密使を送り和睦を申し入れます。サホ姫はこれを
受け入れて イクメ王の后となり、イクメ王はようやく大和に入ります。しかしまだ大王とはなれません。
サホ姫は三輪山の太陽の女神を祭祀する姫巫女となり「大日霊女貴(おおひるめむち)」と呼ばれます。
しかし東征の途中で 物部豊連合王国の最高指揮官の宇佐豊玉姫は病死します。
母親の豊玉姫の葬儀が終わり 遅れてやってきた 豊姫、豊彦たち豊国軍はイクメ王がサホ姫と結婚し、サホ姫が
太陽の女神を祀り 大日霊女貴とよばれているのに ショックを受けます。
もともと連合王国は 宇佐豊玉姫の月読の神を奉じていましたから。そこで豊国軍は佐保彦とサホ姫を攻撃します。
サホ姫は 豊国軍に追われて ホムツワケ皇子をつれて佐保彦とともに 近江から尾張へ逃走します。
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狭岡神社ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

今回訪ねる神社は初めてネットで調べました。いつもは斉木雲州先生の本で調べるのですが
サホ姫の神社がなかったからです。ネットにはたくさんのサホ姫さんが出ていました。
中には織物の女神とか 春の女神とかたくさんありましたが 大部分が垂仁皇后を祀ると書いてあったので
すぐにみつかりました。上の地図の二か所を回りました。
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住宅街の突き当りにありました。
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すぐにわかりました。
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なんか初めて見る神様で サホ姫とはかんけいなさそうですが。
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まちがったかなあと思いながら とにかく進みます。
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入ってすぐ左に石碑と説明看板がありました。
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記紀を引用した割には正確です。たしかに大日々大王の孫で、一時はイクメ大王の皇后でしたから。
記紀は第10代日子坐と第11代彦道主を隠していますから、サホ姫の父親を書けなかったのです。
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新しい石碑がありました。
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境内を探してもサホ姫の社、祠はありませんでした。
ネットでは何人もの方が サホ姫の祠は常陸神社へ移されたと書かれていたので
そちらへ回ります。
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ネットの地図では常陸神社は狭岡神社と 奈良高校を挟んだ反対側にあったのですが
探し回りました。やっとこの案内標識を見つけましたが、
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探し回ってもなかなか見つかりません。ちょうど通りかかった車の方に聞くと
この間を入るのだそうです。
左は奈良高の体育館、右は奈良高のテニスコートで 学校の敷地かと思い入りませんでした。
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やっと見つけた鳥居をくぐります。
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かなり広い境内をあちこち探しますが こちらの神さんも
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あちらの神さんも みな初めて聞くような神さんで なかなかサホ姫は見つかりません。
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境内のはずれに小さな祠を見つけました。
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近寄ってみると やっとありました。サホ姫大神 と書いてありました。
どういういきさつで あの狭岡神社からここへ移されたのか 何もわかりませんでした。
とにかくこちらに鎮座されていましたので 深々と参拝をして 次に向かいました。
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ヒミコゆかりの地を訪ねるツアー その2 巻向、三輪山、日原神社へ続く
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69-2 ヒミコゆかりの地を大和に尋ねるツアー
その2 ヒミコの舞台
三輪山と巻向の地それと豊姫の地 2021年3月17日
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ヒミコゆかりの地を訪ねるツアー その2 ヒミコの舞台 三輪山と巻向の地それと豊姫
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サホ姫の地から 今度はモモソ姫と豊姫の地に向かい、桜井市に入りました。
いきなりこんなバカげた看板がお出迎えです。看板の中身はよろしい。ここ桜井市の三輪山、鳥見山
中心にヒミコ、つまり姫巫女様たちが活躍されたのですから そのとおりです。
しかしこの書かれている卑字蔑字がいけません。2000年前の支那人たちが 周りの国や人々を蔑んだ
名前の字をいまだにありがたがって使うなんて。
桜井市の馬鹿な市役所の職員たち、もっと日本人としての誇りをもちなさい。恥を知れ、ばかもん。
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大神神社の大鳥居から見た三輪山です。神社のご神体です。
今からご神体の山に登拝します。
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大神神社の鳥居です。この形が出雲式の鳥居の原点だそうです。
出雲では 松江市の生馬神社に唯一残っていると雲州先生の本に書かれていて 訪ねましたが
見当たりませんでした。
ここの境内から狭井神社へ向かいそこから登拝します。
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途中の磐座神社に参拝します。ここには 少彦つまり事代主と記紀で名前を変えられた出雲王朝
第八代副王の八重波津身が祀られています。
ちなみに大神神社には出雲王朝第八代主王、つまり役職名「大名持」の八千矛王が祀られています。
記紀では大国主と名前を変えられました。
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こちらにも参拝しました。市杵嶋神社で 市杵嶋姫が祀られています。
宗像三姉妹の末娘で 徐福が二度目に来日した後に嫁がれて、物部王家の祖、穂穂出見と穂屋姫を
御生みになりました。穂屋姫は徐福の長男で腹違いの兄の 五十猛と結婚し初代大和王朝大王の
天の村雲を御生みになりました。
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狭井神社の鳥居も古代出雲式です。ここの境内から300円を払って三輪山に登拝しますが
残念ながら 開けつけは午前中だけということなので 登拝できませんでした。
今まで ご神体の山は 日光二荒山神社から男体山へ、岩木山神社から岩木山へ登拝したことがありますが
両方とも登りで5時間かかりました。
三輪山は20〜30分で登拝できそうなのに なぜ午前中しか登らせてくれないのかわかりませんが
とにかくるルールなのでしようがないですね。
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しょうがないので 巻向周辺と檜原神社を歩くことにしました。
この辺りは桜井市太田という地名です。
登美家第九代当主の太田田根子は 登美家クニアレ姫の愛娘のモモソ姫を支え続けました。
太田の地名は太田田根子からきています。
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三輪山山麓から巻向周辺を眺めたところです。
別のページのヒミコのまとめで詳しく述べますが 第一のヒミコのモモソ姫が姫巫女になると 長かった戦乱も収まり
和国にようやく平和が訪れました。
第一次東征で大和入りした物部軍と地元の出雲系磯城王家との争いも 物部の血を引く大日々が
大王になると ようやく争いも収まり モモソ姫の太陽の女神を祀る大祭には ヤマトの豪族はおろか
遠くからもたくさんの豪族が参集するようになり ここ巻向の地にたくさんの宿舎が建てられて
各地の豪族が寝泊まりしながら大祭に参加したり 持参した各地の土産をモモソ姫の神殿に奉納しました。
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巻向の集落です。
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この「まきむく」は難しい字ですね。
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こちらはJR巻向駅です。
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続いて檜原神社に向かいました。ここも古代出雲式の鳥居です。
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ここにも、三輪神社と同じ三つ鳥居があります。
これも出雲式ですが 現在出雲で残っているのは 出雲長浜神社で、古代出雲王朝第六代大名持の
臣津野(おみつぬ)を祀っています。国引き王として有名です。
左にある祠が豊姫の祠です。
イクメ王のヤマト侵入で大和が混乱しているときに 伊都国駐在の魏の駐在武官 張政により
和国の女王として宇佐豊玉姫の後任として 正式に豊姫が指名されました。
豊姫は魏書には 台与とかかれ 「とよ」と読みます。
誰かが「やまとこく」と書かれたのを「やまたいこく」と間違えて読んだように決して「たいよ」ではありません。
豊姫は宇佐豊玉姫の愛娘で 豊来入姫と呼ばれましたが 「とよき」では 豊の国からやってきた征服王朝というのが
ばれるので 記紀では 「豊鍬入り姫(とよすきいりひめ)」と書かれました。なんのこっちゃ。
兄の豊彦も 豊来入り彦ではなく 豊鍬入り彦とかかれました。
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正面の鳥居からは二上山が見えるはずですが 今日は黄砂がひどくて何も見えません。
豊姫はここ檜原神社で「月読の神」を奉じて人気を集めますが その人気に危機感を持った
イクメ王は自分の腹違いの兄妹の豊彦と豊姫を登美家の加茂田太彦に密かに命じて ヤマトから
追い出させます。豊姫の末路も 「ひみこのまとめ」に詳しく書くつもりです。
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檜原神社は「山野辺の道」に面していて ハイカーが多く 神社正面に茶店がありここへ来ると
いつも立ち寄ります。
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神社正面の桜はもうほとんど散っていました。
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いつもはここでにゅう麺定食を食べるのですが もう遅かったので おはぎを食べました。
大変おいしかったので お土産にも しました。
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姫巫女ツアー おわり
古代出雲トップページはこちらです。
http://yochanh.sakura.ne.jp/kodaiizumo/index.html
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※歴史内容については すべて斉木雲州先生はじめ 大元出版のすべての本を参考にしました。
雲州先生もご了解済みです。またすべての写真は私が自分で撮りました。
また地図はMapionから引用しました。
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69-1 陰険な藤原一族の罠にはめられて失意のうちに亡くなった菅原道真は
死後その祟りを恐れた藤原一族や天皇家により 学問の神様に仕立て上げられました。
彼のせいか後に建てられて松江藩の手厚い保護を受けた松江市の「菅原天満宮」
を尋ねた記録に 補足説明を加えました。 2021年2月2日
菅原天満宮と野見の宿祢の御陵を訪ねた記録に 朝鮮からの渡来人卑ボコの説明を追加しました。
また菅原家の祖先 出雲系の土師家の説明も追加しました。
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九州物部王家の東征で、イクメ王より一足先に日本海を北上し、出雲王国の田和山神殿を破壊したあと
魏から貰い受けた八本の錦の御旗(八幡の語源となる)をかざして大和入りした田道間守(朝鮮渡来人
ヒボコの子孫)は、自分がヤマトの王のように振舞いました。
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それもそのはずで、田道間守もイクメ王も魏に別々に朝献に行き(第二のヒミコ豊玉姫の使者として)
それぞれが魏の官位「中朗将」を授かっているので 田道間守からすると イクメ王は自分と同格と
思っていました。
吉備王国の討伐に手を焼き、大和に遅れてやってきたイクメ王は 自分の命令に従わぬ田道間守に手を焼き、
自分が倒したはずの「旧出雲王家」に出雲進駐軍司令官 秋上十千根を通じて ヤマトに出兵して
田道間守を撃つように 助けを求めます。
物部王家に倒された出雲王家の内 東出雲王家の富家(とびけ)は名前を向家に替えていた。イクメ王から
秋上十千根を通じて出兵を要請された向家当主の太田彦は 出雲王家を滅ぼした物部王家が
憎かった。しかし出雲王家の神聖な田和山神殿を破壊した朝鮮系の 田道間守はもっと憎かった。
そこで向家当主の太田彦は 名前を富(とび)の名前を野見(のみ)と変えて 野見太田彦として 神聖な田和山神殿を
破壊した 渡来朝鮮人卑ボコの子孫の田道間守に復習する為に この助けを聞き入れて 出雲兵を
引き連れてヤマトへ進軍し、田道間守を見事に打ち破ります。
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この戦争が 記紀では当麻蹶速(たいまのけはや ※田道間守が領地にして君臨していた場所「奈良県御所市当麻町」は
タジマの名前が訛りタイマと呼ばれて当麻の字が当てられた)と野見の宿祢(田道間守の敗走に喜んだイクメ王は
野見太田彦に物部王家の重鎮の称号である「宿祢(すくね)」を与えて太田彦は野見宿祢と呼ばれた) の
相撲勝負のおとぎ話に替えられてから、後世にはこれが大相撲の起源とされてしまった。
記紀の作り話も恐ろしいことに発展したものである。
記紀は物部王家のイクメ王が 出雲族の助けを借りて ヤマトの平定をしたことをひたすら隠すために
戦争を力比べの相撲話にすりかえたのである。
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ヤマトに住み着いた 野見の宿禰 の子孫の出雲族は 古墳築造技術に優れていて イクメ王皇后のヒバス姫の
御陵を築き、その後土師氏(はじし)と呼ばれ 土師家を名乗る。
※イクメ王とヒバス姫の姫皇女の大和姫は 信仰心厚く 太陽の女神を奉じて伊勢へ行き 伊勢の豪族
伊雑の宮の社家 井沢富彦の保護のもと 五十鈴川のほとりに内宮を建てて太陽の女神を祀った。
井沢富彦は登美家出身である。
大和姫の死後 遺体は大和に運ばれて出雲系の賀茂家当主 賀茂田太彦(かもたたひこ 土師家から養子入り)
らにより古墳が作られて人々は 土師氏が作ったから 土師墓(はじはか)と呼んだが 記紀は
箸墓と名前を変えて箸墓古墳と名前を作り替えた。さらに嘘は嘘を呼び 大和姫は箸で陰部を突いて
亡くなったというわけのわからん作り話をこさえた上に 宮内庁はその嘘のさらに上乗せをして
「大和、ととびモモソ姫」御陵なんて大和姫とモモソ姫という100年以上時代の違う二人のヒミコ
「1番目と5番目のヒミコ」を合体させたお墓を作ってしまい すましている。恐れ多いことだ。
※2015年1月19日の記事にのせています。
そしてその土師家の子孫からは学問の家系の菅原家や大江家(平安時代の歌人大江匡房やその子孫軍学者 大江時親)が
生まれたと言う。ちなみに大江家が毛利元就の祖先とされている。
※田和山神殿跡については 2014年6月16日のこのブログの記事に載せています。
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来待町「菅原」の地名がのこるこのあたりは山の中だ。
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この鳥居を潜ると菅原天満宮の参道だ。
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ここにはもともと向太田彦(野見の宿祢)のお墓があったという。
野見の宿禰 は大和で田道間守の軍勢を打ち破り、暫く大和に留まった後、イクメ王から拝領した土地を
息子らに任せて出雲へ凱旋する。その帰路に播磨の出雲系の豪族の家に招待されてご馳走が振舞われた。
しかしその家の使用人に 朝鮮人ヒボコの家来の子孫が働いていて 食事に毒を盛られて翌日にその地で
急死したと言われる。
野見彦の遺体はその地で埋葬され、大勢の出雲族が出雲からやってきて、野原に整列して 手渡しで石や土を運び
墳墓を作ったという。それでその地は大勢の人が野原に立ち並んだ事から「立つ野」と言う地名になったという。
遺体の一部は 出雲に持ち帰られて この地に葬られた。
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ここで渡来朝鮮人卑ボコについて
卑ボコは辰韓の王子であったが、父親の辰韓王から疎まれて 家来と財宝を分け与えられ
二世紀に船で日本海を渡ってきた。出雲王国の大名持(主王)に上陸の許可を願い出たが 大名持が
「先住民の土地を奪わないこと。出雲王国の八条書き(法律)を守ること」を条件に出したが卑ボコは
それを拒否した。父親に捨てられて心が荒んでいたのだろう。
大名持は出雲、石見、伯耆の地に住むことを禁じた。
そこで卑ボコは但馬の丸山川をさかのぼり 沿岸部に上陸しようとしたが出雲兵に追われた。
やむなく卑ボコ集団は上流の大磯(豊岡市)の広い沼地に船を泊めて船上生活を始めた。
当時は丸山川河口は狭く、津居山でふさがれていてそのため流れが悪く上流は湿地帯になっていた。
そこで卑ボコは人々を指揮して 津居山を削り河口を広げて流れをよくすると上流に肥沃な豊岡盆地が出現した。
新しく陸地となった場所に 卑ボコ集団は田畑を作り集落を作り住み続けて、その子孫は土地の豪族となった。
しかし卑ボコは 出雲王家を逆恨みして 出雲王国を末永く恨み続け。
そのため 後々卑ボコの子孫が出雲王家に戦争を仕掛けた。
出雲王国の播磨に突如侵入して占領し 出雲王家と大和の磯城家(出雲王家の大和分家登美家)との分断を図り
結果出雲王家は孤立する。
卑ボコやその家来の子孫はいつまでも出雲王家を逆恨みし続けて その子孫が野見の宿祢に
毒を盛ったのである。もちろん野見の宿祢の軍に蹴散らされた田道間守は卑ボコの子孫である。
ほんま朝鮮人は執念深いからなあ。
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時代が下がり、野見彦の子孫から土師家が出来て そこからさらに菅原家と大江家が出来た。
出雲国庁に 国司として滞在していた菅原是善(これよし)が、この地に自分の祖先の野見彦の墓に
参拝に来たとき、案内してくれた地元の女子が 利発なのに気に入り寵愛して 生まれたのが道真だという。
道真が6歳のときに都から迎えが来て 親子は都へ行き 道真は菅原家の子として育てられ、長ずるにおよび
天賦の才能が開花して頭角を現したらしい。
その後あの日本史の汚点である陰険な藤原一族(その子孫はしぶとくも千年以上皇室を食い物にして生きながらえて
近衛文麿はじめ現代まで続いている)の陰謀に陥れられて無念の死を遂げられた事は 周知の事である。
その後宮中で起こった奇怪な物の怪事件の連続に藤原一族は 菅原道真の祟りだと恐れおののき
彼を学問の神様、天神様として全国に祀るのである。
彼の死後 この生地に建てられたのが 「菅原天満宮」で、歴代松江藩主により、守られ続けて来たという。
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長い石段をゆっくり登っていく。
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石段を登ると正面に拝殿がある。
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拝殿も立派な建物だ。松江藩の保護を受け続けていただけはある。
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本殿はなぜか大社造りにはなっていない。出雲王家の血を引くお方なのに何故だろう。
千木は出雲式の縦削ぎではあるけど。
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参集殿では丁度近所の方が集まって 25日の「秋の大祭」の準備をしている最中だった。
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「野見の宿禰」 の御陵
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境内の脇に石段があり、それを登っていく。
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こじんまりとした墳墓があり、野見の宿禰 つまり向太田彦の御陵だという。
雨も激しくなってきたので、御陵にお参りした後 立ち去った。
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太田彦の古墳は 島根県飯南町野見野にもあります。
そこを訪ねた記録はこちらです。
http://blog.goo.ne.jp/yochanh1947-kodaiizumo/e/aa16ed0399a854fe21ff961e972b14f0
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聖徳太子の皇子、日置王が建てた日御碕神社に参拝しました。
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夕陽を拝む 日御碕神社 その1
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日御碕神社は 出雲大社の北、島根半島の西端にあります。
その地は 日本海に沈む夕陽を拝むのに適した場所です。
この地に夕陽を拝む「日御碕神社」を建てたのは 日置王です。
日置王は上の宮法王(いわゆる聖徳太子)の皇子です。
このあたりの事情は後ほど詳しく説明します。
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出雲市から県道を車で走ると やがて山間に神社の建物群がみえてきます。
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大きな石の鳥居をくぐります。
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いきなり主祭神が大きく書かれた看板がお出迎えです。
天照大神は太陽の女神で 古代出雲王家の「佐比賣の命」が大和王朝でアマテラスと書き換えられたもので
太陽の女神を祀るのはわかるのですが なぜ素戔嗚つまり徐福なのでしょうか。
徐福が紀元前3世紀末に五十猛海岸へやってきて 出雲王家の主王ほ八千矛や副王八重波津身を
あいついで幽閉殺害して、自分が出雲王国の王になろうとして、街道たちを出雲国内で
大暴れさせた大事件はまだこのころ(推古帝)は都の貴族たちも記憶していたと思いますが。
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説明看板によれば この神社全体が 徳川幕府により 全面的に建て替えられていて
その時に主祭神が替えられたか 追加されたかしたのではないでしょうか。
この地方を支配していた 尼子氏が毛利に敗れ、毛利が秀吉に下りさらに徳川になった初めのころ
ですから もうこの地でも徐福の悪行に対する嫌悪感がかなりうすれていたのでしょう。
徐福を祀ることで 喜ぶのは出雲大社の宮司の家系だけですから。
だって出雲大社宮司は矛卑(ほひー徐福の忠実な部下で徐福とともに出雲国内で暴れた)の子孫ですから。
ちなみに全国の天皇陵なるものも 今の姿が初めからあったわけではなく、徳川後期の公武合体以後
徳川が巨額の費用を出して ほとんどの天皇陵を作り替えています。
ついでに実在しない天皇の陵を造ったりやりたい放題ですが。
※架空の大王や皇子の神武、ヤマトタケルの陵、九州から出たことのないイニエ王(崇神)の陵
モモソ姫と大和姫という時代の全く違う二人の姫皇女(いわゆるヒミコ)をくっつけて一つの陵としたり。
なんのこっちゃといいたいですね。
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立派な神門です。
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神門をくぐり境内に入ります。
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正面が「日沈みの宮」です。アマテラスが祀られていますが 朝日の方向を向いています。
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拝殿です。なんかきらびやかですね。
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内部もきらびやかです。
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こちらは本殿を真横から見たところです。境内はすべて「権現造り」なので、本殿も
大社造りとは似ても似つかない建物になっています。左の拝殿との間に別の建物が挟まれています。
「石の間」と呼ぶ建物でしょうか。
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こちらは神の宮で、夕日の沈む方向を向いて建てられています。
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神の宮拝殿です。
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拝殿内部で先ほどの 日沈みの宮の拝殿と似ています。
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左が本殿で右の拝殿より少し大きいようです。
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神の宮から日沈みの宮を見ると ちょうどその奥に夕陽が見えました。
ということで これらの建物はすべて権現造りと呼ばれる建物で 徳川幕府が日光東照宮を作った
大工たちを連れてきて 造営したものでしょう。
私個人的には 出雲の風土になじまないなあと思いました。それに素戔嗚を主祭神とするのは
徐福の子孫、秦国人の末裔たちのすることで、京都の松尾大社、八坂神社などがそうです。
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境内の裏にひっそりと小さな祠があるので近づくと「韓国(からくに)神社」と書いてありました。
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祭神は素戔嗚つまり徐福は当たり前ですが ここには徐福に嫁入りした出雲王家第七代主王
「天の冬衣」の姫皇女が生んだ徐福の長男「五十猛(いそたけーのちの香語山)」も祀られていました。
外国人つまり渡来人を祀っているから 韓国(からくに)と名付けたのでしょう。
神社の由緒書きに この神社の宮司の遠祖が「天の冬衣」だと書かれていたのですが ありえませんね。
出雲王家の主王副王を同時に殺害して 自分が王になろうとした奴を出雲王家の子孫が
祀るなんてありえないことですから。有名な天の冬衣王を自分の祖先だと偽って箔をつけたかった
のでしょう。
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その2へ続く
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夕陽を拝む 日御碕神社 その2
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西側のきれいな回廊を出ると
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こちらにも小さいけれど 立派なお社がありました。
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近寄ると「宗像神社」とあり、田心姫(たごりひめ)が祭神でした。
田心姫は出雲王朝第七代主王の雨の冬衣に嫁がれた九州の宗像家の三姉妹の長女の方です。
そして田心姫が生まれた高照姫が徐福に嫁がれて 五十猛を御生みになったのです。
宗像家は 出雲王家第六代主王の臣津野(おみつぬー国引き王として有名です)の皇子の吾田片隅が九州へ移住して
開かれた出雲王家の分家です。
ちなみに宗像三姉妹の次女の多岐津姫は第八代主王八千矛(徐福に幽閉殺害されました)に嫁がれました。
徐福がいったん申告へ帰国して始皇帝から更なる資金と多数の海童たちをもらい 二度目に佐賀の浮盃に
上陸したあと 宗像家からめとった姫が末娘の市杵嶋姫(いちきしまひめ)で市杵嶋姫は 徐福の次男
穂穂出見 と長女穂屋姫を御生みになりました。
穂穂出見が九州物部家を興しその子孫が二度にわた之東征して 大和王家を倒すのです。
穂屋姫は徐福の長男五十猛と結婚し天の村雲を御生みになり天の村雲が 初代大和王家の王となるのですが
徐福の次男の子孫の東征で倒されるのです。おとぎ話の海幸彦と山幸彦の兄弟喧嘩のモデルです。
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ということで 日置王が豊富な財力で建設した神社は 徳川幕府により跡形もなく作り替えられ
家康を祀る日光東照宮のようなキラキラしたものになり 個人的には好きになれませんでしたが
観光客が誰も見ようとしない ひっそりとした韓国神社や宗像神社にこそ 出雲王家の痕跡が
残されていて ここを訪ねた甲斐がありました。
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神社を西へ出て歩くと すぐに日御碕漁港があり
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すぐ右手に経島(ふみしま)がありました。日沈みの宮はもともとこちらにあったとされています。
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帰路に県道を走っていると遠くに砂浜が見えてきました。
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徐福やその忠実な部下の矛卑(ほひー今の出雲大社の宮司の祖先)立により 日御碕神社のもう少し東側の
日本海に面した「猪目洞窟(いなめどうくつ)」で幽閉殺害された後 不比等らによる記紀では
この稲佐の浜で 大国主(八千矛王)は国譲りをした後 小舟をひっくり返してその中へ
御隠れになりました。と殺害を隠された砂浜です。
またこの砂浜は 毎年神在月(出雲以外では神無月)に全国の神々がこの砂浜に上陸されて
出雲大社へ向かわれるという作り話も作られました。
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初代日御碕神社を建てられた日置王について
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推古女帝の兄「用明大王」と推古の姫皇女「貝蛸(かいたこ)姫皇女」との間に生まれた皇子は
二人で 長男が財王(たからおう) 次男が日置王です。
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日御碕神社は 御食炊屋姫(みけかしきやひめ)大王(推古)の指示で出雲の国に配属された日置王が
推古女帝の希望に沿い 建設したものです。
フトタマジキ大王(敏達)の指示で設立された 日奉部(ひまつりべ)は太陽信仰の部署です。
古代出雲王家やその大和分家の登美家、磯城家は三輪山で太陽の女神を信仰しました。
それは日の出を拝むものでした。それに対して日奉部は夕陽を拝むとされています。
日置王はその日奉部を敏達、推古から受け継ぎ 日奉王と称していました。
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一方出雲では 広庭大王(欽明)の時代に広庭大王により 日置の伴部(へきのともべ)らが派遣されて
出雲の王家の谷に広庭大王の指示で 旧東出雲王家神門臣家のために次々と巨大古墳が増築されました。
広庭の父君が男大迹(おほど)大王(継体)で この方は東出雲王家の男大迹の君ですから、当たり前のことですけど。
※その辺のことはこのブログの男大迹大王を越前に尋ねる旅(2018年4月5日)を見てください。
※また日置王や財王が出雲に配属された理由などはこのブログの2019年3月19日の記事をお読みください。
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日奉王が出雲に配属されたころは すでに日置の伴部らが方四隅突出墓をたくさん作っていました。
日置氏はもともと朝鮮系の氏族です。その頃都では朝鮮系の息長氏(おきなが)系の勢いが次第に
強力になっていました。そこで日奉王は 朝鮮系の迫害を避けるために 日置の名を継いで
日置王と名乗るようになりました。
日御碕神社の完成を聞いて 額田部大王(推古)は大そう喜ばれたそうです。
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この写真は出雲市の斎谷に多数築かれた 出雲西王家神門臣家の王家の墓 四隅突出墳丘墓の一つです。
日置王は ご自分で造営された 上塩冶築山古墳に葬られました。
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これがその日置王の古墳から発掘された品々です。このほか黄金の太刀や多数のブレスレットとネックレスもあります。
当時勾玉やネックレスなどの装飾品は王族しか身に付けることを許されませんでした。
「出雲弥生の森博物館」見学記はこのブログの 2014年6月18日の記事にあります。
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これが復元された日置王の写真です。博物館のパンフに載せてあります。
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「古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて」トップページはこちらです。
http://yochanh.sakura.ne.jp/kodaiizumo/index.html
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※このブログの内容は 大元出版の斉木雲州先生他すべての本の内容によりました。
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諏訪といえば 出雲王家の建御名方(たてみなかた)が開拓したことで知られています。
その辺のことをもう少し詳しく述べてみたいと思います。
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諏訪湖地方を開発した出雲族 その1
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徐福の渡来と秦国人による 出雲王国の主王、副王の殺害
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紀元前三世紀末、徐福は大勢の海童たちを引き連れて 最初島根県の太田市五十猛海岸に上陸し 和名を「火明かり(ほあかり)」
と名乗ります。事前に忠実な部下の「矛卑ホヒ」を出雲王朝に使わして 上陸の許可を取り付けるという周到な悪巧みをしてからです。
ちなみにホヒの子孫が今の出雲大社宮司です。上陸した徐福は出雲に住み、出雲王家の高照姫を娶り 長男が生まれ 五十猛(いそたけ)」
と名付けます。徐福の父の名が徐猛と言ったので 「猛」を付けたのでしょう。
自分が出雲王国の王 つまり和国の王となるつもりでやってきた徐福は 当時の出雲王国の主王と副王を亡き者にします。
当時の出雲の 主王八千矛(役職名は大名持で 記紀では大国主とか大黒とか大名持、大汝と書かれた)と副王の八重波津身
(役職名は少彦で記紀では事代主とか少名彦名と書かれた)をホヒや海童たちに命じて誘拐幽閉して殺害し
自分が出雲の王になろうとしますが 王国の組織がしっかりとしていて それが果たせずに いったん秦国へ帰国します。
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五十猛海岸の地図です。
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付近の地名には 駅名をはじめ小学校、交差点など多くの五十猛があります。
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五十猛海岸の神島です。
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神島の説明看板です。
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※徐福が上陸した石見五十猛海岸訪問記事は 2014年4月24日の記事に載せています。
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猪目洞窟の地図です。ちなみに 園の長浜とは 記紀の作り話で大国主が小舟をひっくり返してその中に隠れてしまったという砂浜です。
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猪目洞窟です。説明看板には あの世の世界「黄泉の国」への入り口だと書かれていました。
ほんとのことを書くと 出雲大社の宮司が困りますからねえ。
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粟島の地図です。八重波津身(事代主)は美保関の沼川姫の御屋敷にいたところを矛卑たちに誘い出されて、
つまり大名持が行方不明だから すぐ来てくれと 誘い出され 王の海(今の中海)を西へ向かったまま
行方不明になったと 向家に伝わっているそうです。
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志都の岩屋洞窟の前には鳥居が建っています。今も聖地なのです。
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大汝(おおなんじ)とは出雲王朝主王の役職名大名持のことです。少彦名(すくなひこな)とは副王の役職名少彦で
記紀では 意図的に間違え表記しています。
万葉集の時代までは 大国主(第八代の八千矛王)と事代主(第八代の八重波津身副王)が洞窟に幽閉されて殺されたことを
人々は知っていたのですね。奈良時代の都の貴族豪族の大半は出雲族でしたから、あたりまえですけどね。
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※大名持が幽閉殺害された猪目洞窟と少彦が幽閉殺害された志津の岩屋の訪問記事はこのブログの2013年3月18日の記事です。
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出雲王国の皇子たちの大和への移住
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徐福、その部下穂日、穂日の息子夷鳥(ひなどり)や海童たちに幽閉殺害された
八重波津身副王(記紀では事代主と書換えられました)の后の一人活玉依り姫(いくたまよりひめ)は皇子の奇日方(くしひかた)
を連れて実家の三島(今の大阪府三島郡島本町)に帰ります。
そして奇日方は三島の人たちや大勢の出雲族とともに葛城地方(今の奈良県葛城氏、御所市)に移住し登美家を名乗ります。
そして 同じく徐福や穂日らに幽閉殺害された 八千矛王(記紀では大国主と書換えられました)の皇子
味鋤高彦(あじすきたかひこ)も大勢の出雲族を引き連れて葛城南部に移住し 高鴨家を名乗ります。
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出雲王国内で暴れまわる海童たち秦国人たちとの共存を嫌い、葛城地方(今の金剛山、大和葛城山の山塊の東側)に
移住した 出雲王家の皇子たちの勢力図です。
しかし徐福の息子の五十猛も丹波地方に移住して 「香語山」と名乗ります。そして香語山は 父徐福と九州宗像家の市杵嶋姫との
間に生まれた穂屋姫(つまり香語山の母違いの妹)と結婚します。
そして香語山と穂屋姫との間の長男が「天の村雲」で 出雲王家に遅れて大和葛城地方へ乗り込んできました。
大和入りした徐福の孫の天の村雲たち秦国からの渡来グループはヤマトで強大な勢力となります。
紀元前2世紀の当時では 数千人規模の海童たちは すごい数の勢力なのです。
そこで 出雲王族の二人、味鋤高彦と奇日方は ともに天の村雲が初代大和大王になるのを助けて支持します。
初代大和大王(おおきみと呼ばれていました。天皇と呼ばれたのは天武から後のことです。)の皇后となったのが
奇日方の妹「踏鞴五十鈴姫(たたらいすずひめ)」です。そして生まれたのが皇子の「沼川耳(ぬなかわみみ)」
で二代目大和大王となります。
※ 記紀は天の村雲の名前を消して「神武」という架空の名を作りますが 二代目の沼川耳、三代目の玉手看(たまてみ)などは
そのまま記紀に名前が書かれています。しかしイクメ大王(垂仁)前後からは記紀の大王名はむちゃくちゃになります。
このブログの記事でも詳しく取り上げて訪ねています。
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天の村雲達が建てた 葛城坐火雷神社(かつらぎにいますひといかづちじんじゃ)通称笛吹神社です。
火と雷とは製鉄法の踏鞴(たたら)のことです。
海童たち秦国人の子孫は故郷を偲び 陶?(とうけん)と呼ばれる土笛を吹いていました。
それで笛吹神社とも呼ばれるのです。
陶?はオカリナの仲間の楽器で掌で握る卵形の楽器で 七つの穴が開いている土笛です。
海童の子孫のハタ族と呼ばれる秦国人の子孫たちが住んだ地域から たくさん発掘されています。
松江市の西川津や古浦砂丘の遺跡から多数発掘されていて ハタ族の住んだ長門地方、また徐福の長男香語山
(五十猛)が移住した丹後半島、などでも多数出土しています。
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鴨都波神社は東出雲王家の向家の皇子奇日方(くしひかた)が中心になり移住開拓し、高鴨神社や一言主神社を建てました。
主祭神はもちろん事代主です。彼らは後に登美家と名乗るようになります。
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高鴨神社は西出雲王家の神門臣家の味鋤高彦(あじすきたかひこ)を中心として出雲族が移住開拓して
高鴨神社を建てました。
祭神はもちろん父親の八千矛王のはずですが なぜか事代主です。それと下照姫です。
下照姫は父八千矛王と八神姫との姫皇女で味鋤高彦の母違いの妹です。
彼らは高鴨家とか賀茂家と名乗ります。ちなみに古代出雲では 神のことを「かも」と発音し
後に鴨の字があてられました。
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※大和葛城地方へ移住開拓した出雲族の足跡を訪ねる記事は 2013年2月13日に載せています。
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その2へ続く
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67 諏訪地方を開拓した出雲族 その2
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美保神社と御穂須須美(みほすすみ)
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一方事代主(八重波津身)のもう一人の后の沼川姫は美保関に屋敷があったので美保津姫(三穂津姫)とも呼ばれていました。
そして事代主亡き後 沼川姫は 皇子の建御名方(タテミナカタ)を連れて実家の越の国、今の糸魚川に帰ります。
しかし沼川姫の姫皇女の御穂須須美、または美保須々美(みほすすみ)は 沼川姫の住まいの美保関の邸宅に残り
美保神社を建てて父の八重波津身を祀り 一生を美保の地で過ごされます。
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ちなみに八重波津身は記紀で事代主と書かれ 時代が下ると恵比寿様と呼ばれるようになるので
美保神社は恵比寿様を祀る神社ということで 全国の戎神社の総本社になります。
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松江市美保関町は美保神社の門前町です。青御影石の石畳が敷かれた道で土産物屋が並んでいます。
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美保神社の入り口です。
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立派な神門をくぐります。
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立派な拝殿です。全国の戎神社の総本社らしい重厚な造りです。
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拝殿の後ろに本殿があります。
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また美保神社は 美保津姫(沼川姫)と事代主を二柱祀るのでそれぞれ大社造りを二棟建てて それを「装束の間」
と呼ばれる建物で繋いだ形式の建物で美保造りと呼ばれています。
しかしもともとは御穂須須美(みほすすみ)の一柱のみを祀っていたと出雲の国風土記に書かれていたそうです。
しかし出雲風土記はイクメ大王が天下を取った時に都に駆けつけて大王に直談判して 出雲国造に決まっていた物部の十千根を
ひっくり返して 矛卑の子孫の果安が強引に国造にしてもらい 出雲風土記も果安らが作ったことを考えると
事代主と沼川姫の名前をあまり世に出したくないので 娘の美保須々美だけを祭神にしたとも考えられます。
だって事代主を殺して沼川姫を越の国へ追いやった犯人は 徐福の忠実な部下の矛卑(ほひ)ですからね。
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寒い12月に行われる美保神社「諸手舟神事(もろたぶねしんじ)」です。
美保の沼川姫の御屋敷に滞在していた事代主(八重波津身)のところに 大名持(大国主)が行方不明だという知らせが
早舟で知らされた 故事を現した神事です。
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松江市の駅前商店街には 「沼川姫」と書いたお店があります。以前から気になっていたのですが
何のお店か わかりません。多分おみやげ物屋だったような記憶がありますが。
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沼川神社のこと
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沼川姫と皇子の建御名方は越の国(今の糸魚川市)に帰りますが 建御名方は その後大勢の越の人や
出雲族を連れて諏訪盆地へ移住し諏訪地方の開拓に努力して成功します。
そして建御名方(タテミナカタ)は諏訪地方で絶大な尊敬を集めます。そして沼川姫も。
諏訪大社の主祭神 はもちろん建御名方(タテミナカタ)と 母親の沼川姫です。
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※ 記紀の製作者の持統女帝や不比等たち徐福の末裔たちは 諏訪の人たちから絶大な尊敬を集めた
建御名方が気に入らなかったらしく、記紀では 「出雲へ国譲りの交渉に出かけたタテイカヅチ
なる荒武者と 出雲の王子 建御名方(タテミナカタ)が力比べをして タテミナカタは負けて諏訪湖へ逃げ延びて
「ここから一生出ないからゆるしてくれ」と命乞いをしたと書きました。
ほんま支那人の末裔たち(大和王朝の王家とそれを千年に渡り支え続けて自らの私腹を肥やし続けた不比等の子孫藤原一族)は
諏訪の人たちにも 出雲王国人の私たちにも失礼千万な スケールの小さな奴らなのです。というかあいつらは
記紀を作り それを国民にごり押しして 和国の歴史を歪めた超悪人なのです。
自分たちが渡来人で出雲王朝を倒して出来た 征服王朝の支配階級だという事を徹底して隠すため
自分たちの祖先は天上世界から神様が地上に使わした神の子の子孫だなんて でっち上げて
人民から尊敬されようとしたのですねえ。笑えますねえ。
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拝殿の中です。神社名の額には卑字がつかわれているため 私は沼川神社と書いています。
自分たちの郷土の英雄を祀る神社にこんな卑字をつかうなんて。やめましょうよ。
卑字といえば当時の支那人たちは自分たちが世界で一番優れた民族だと思い込んでいて、(今でもそうですが)
周辺の民族を蛮族と呼び 卑字や動物の字を当てて表記しました。
我が国の和国も卑字で表現したり ヤマト国に馬の字を当てたり 姫巫女や姫皇女のことをヒミコと省略して
卑字で表していました。その卑字を二千年も経った現在でも ありがたがって使っている歴史学者や
地方の教育委員会の馬鹿たちがいます。
もっと日本人にプライドを持ってほしいものです。
ちなみに奈良県桜井市を訪ねた時に 町の中に大きな看板があり「ヒミコの里」と卑字で大きく書いてあり
唖然としました。日本人のプライドを捨てていますよねえ。
江戸時代に徳川幕府に李氏朝鮮から通商使節が来たときに 親書に和国のことを卑字でかいてあり これに立腹した幕府は
使節を追い返し 書き換えた親書を持ってきて初めて面会したといいます。日本にプライドがあったのですねえ。
現代の一部の馬鹿な歴史学者や教育委員会の人たちも少しは勉強して 日本にプライドをもってほしいものです。
沼川神社はとてもわかりにくかったです。町の人に聞いても皆さんご存じなくて、苦労しました。
そこで市役所の観光課に聞きに行くと なんと市役所の隣にありました。
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拝殿の裏手にあるこじんまりとした本殿です。
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ここにも卑字が使われています。自分たちの誇る郷土の英雄なのに なぜ卑字を使うのでしょう。
多分時の権力者、右大臣の不比等らに 気を使ったのでしょう。
もういい加減にやめましょうよ。 天皇制度を利用して千年以上私腹を肥やして 利益をむさぼってきた藤原家やその子孫の
近衛家に気を遣うのは。ちゃんと当たり前の字を使いましょう。
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屋根の鰹木についている紋は出雲王家の龍鱗紋ではありませんでした。
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本殿の屋根の千木は出雲式の盾削ぎではありませんでした。
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沼川姫の木像です。この神社に伝わっているそうです。
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諏訪湖と諏訪大社
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以前信州山旅をしていた時 諏訪湖畔で車中泊しました。
朝起きてみると湖の中に女の人が立っています。
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近くを散歩中の人に「あの方はどなたですか」と訪ねてもほとんどの方がご存じありませんでした。
年配の方に聞くと「あの方は沼川姫だと思います。悲劇の御姫様ということしか知りません」
とおっしゃっていました。
あとで調べるとやはり沼川姫でした。建御名方の母上です。
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まず諏訪大社上社を訪れました。
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城内配置図です。広いですねえ。諏訪大社には どの社にも本殿はありません。木や山がご神体なのです。
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大国主が祀られていて 建御名方の父神と書いてありましたが これはまちがいです。
大国主(八千矛王)は父ではなく 事代主(八重波津身)が父で 沼川姫が母です。
主祭神は もちろん建御名方と その奥様といわれる 八坂斗女姫です。
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こちらは下社秋宮です。
下社は春宮と秋宮の二社あります。これは出雲王国時代は 春分大祭と秋分大祭の二大宗教行事が出雲で行われて
全国の豪族たちが集まったことが 影響しているといわれています。そして古代出雲王国では 春分の日と秋分の日に
それぞれ1歳年を取ったといわれています。つまり1年に2歳年を取るのです。
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ここには沼川姫が祀られていました。安産の神だそうです。
普通偉人の母親が祀られると 安産とか女性の病気の神とされますね。
空海のご母堂が祀られている九度山の慈尊院境内には 女性のオッパイのぬいぐるみが山積みされて奉納されています。
安産とかお乳がよく出るようにとか 女性の乳がんの平癒とかいろいろいわれて たくさんの方が奉納しています。
役行者のご母堂白専女(しらとうめ)が祀られている奈良県天川村の母公堂(ははこどう)も安産の神とされています。
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下社秋宮にはなんとあの「建て雷(たていかづち)」も祀られています。出雲の国譲りの談判で
建御名方をコテンパンにやっつけたと記紀に書かれたあいつです。ということは 誰がこんなやつを祀らせたのか
すぐ分かりますよね。
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秋宮の手水は温泉が引いてあり 湯気が出ていました。
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下社春宮です。
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ここも立派な建物です。
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広い境内の正面は舞殿でしょうか。
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ここにも越の沼川姫が祀られています。高志とは越のことですね。
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もちろん建御名方も祀られています。
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諏訪湖地方を開発した出雲族 その3へ続く
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67 諏訪地方を開拓した出雲族 その3
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出雲を原郷とする信濃人
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面白い新聞記事を持っています。
長野県中野市越の越智神社の主祭神は 御穂須須美(みほすすみ)だそうです。古代文字で書いてあるそうです。
場所名からして いかにも越の国とかんけいありそうですね。
松江市にも越の人がたくさん移住してきていたので 古志とか古志原とかいう地名が今もあります。
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御穂須須美(みほすすみ)とは事代主と沼川姫の娘です。記紀には絶対に出てこない名前ですね。
もちろん出雲族には おなじみの御姫様ですが。
事代主が徐福らに殺された後 松江市美保関に残り父の事代主(八重波津身)を祀り一生を終えられた姫です。
出雲族にとっては なじみの深い御姫様です。
ということはこのあたりに住んで 開拓したのは 建御名方に付き従って諏訪湖周辺へ移り住んだ
出雲族の子孫と考えられます。
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出雲族と御柱のこと
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上社の境内に御柱祭の説明看板がありました。
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秋宮の御柱です。
諏訪大社の御柱祭について かの岡本太郎氏は「縄文人の血がそうさせるのだ」とほめたたえていました。
しかしそれは違います。
出雲族の血がそうさせるのです。
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これは出雲王の葬儀に墳丘墓に御柱を建てる古代出雲の人たちです。
殯の宮の建設と思われます。なんと似た風景なのでしょう。
出雲族は 古墳築造技術にも 土木工事にも長けていました。土師氏と呼ばれる人たちです。
大和の大王の巨大墳墓は ほとんど土師氏の制作です。
※この写真は出雲弥生の森博物館で私が撮影したものです。
このブログの2014年6月20日の記事に詳しく載せています。
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これは近年発掘された 古代出雲大社の宇豆柱(うずばしら)です。
直径が約1.5mの巨大な丸太材を3本束ねて それを巨大な宇豆柱として 高さ94mの巨大神殿を支えていました。
宇豆柱とは 大社造りの9本の柱のうち正面の妻側の中央の柱で 若干外部へはみ出していてその柱が
棟まで伸びて建物を支えています。
※出雲古代歴史博物館のパンフレット写真です。
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巨大神殿の模型です。
※出雲古代歴史博物館のパンフレット写真です。実際にこの模型も展示してあります。
平安時代のわらべ歌に「雲太、和二、京三 (うんたわにきょうさん)」と歌われていたそうです。
当時の日本一の高さの建物が 雲州の出雲大社(太は太郎の太で一番の意味です)で二番目が 大和の大仏殿、三番目が
京都の大極殿 という意味だそうです。
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この巨大神殿ができたのは 716年で旧出雲王家の向家と神門臣家が資金を出して 大国主を祀る
大神殿を建てました。記紀では 国譲りの代償として 大和王朝が建ててやったと嘘を書いていますが。
御柱を建てる技術や巨大墳墓を造営する土木技術は 出雲王国時代のものです。
その出雲の民の血が 御柱神事をさせるのでしょう。
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出雲王国の国教 幸ノ神三神のこと
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古代出雲王朝の国教は 幸の神三神でした。つまりクナト大神、佐毘売(さひめ)のミコト、それに皇子神の
サルタ彦です。
ちなみに サルタとは古代インドのドラビダ語で鼻の大きいとか鼻の長いという意味で つまり今のヒンドゥーの
「象神 つまり ガネーシャ」のことです。時代が下った古事記などでは 猿田彦などと書かれましたが。
くれぐれも 猿の神ではありません。
クナト大神は 大神山(おおがみやま)に祀られました。そして大神山は いつの間にか大山寺に集まったヤクザ坊主どもに
「大山(だいせん)」なんて俗っぽい名前に変えられてしまいました。須弥山の真似をしたのでしょうね。
そして今では「大神山神社(おおがみやまじんじゃ)」だけにその名前が残っています。
大神山神社の境内奥に 「行者の道登山口」、「三鈷峰登山口」があります。
※2013年6月12日の記事にも大神山神社訪問記を載せています。
佐毘売のミコトはもちろん佐毘売山(さひめやま)に祀られました。明治時代の陸軍の陸地測量図にも「佐毘売山」
と書かれていたそうで、何時誰が 「三瓶山さんべさん」なんて陳腐な名前に替えたのでしょう。
2500年も続いた 出雲族に親しみのある佐毘売山を復活して欲しいものです。
そして皇子神のサルタ彦は 鼻が高い山すなわち 出雲北山の鼻高山(はなたかせん)に祀られて居ます。
インドに侵入したアーリア人に押し出されて 南インドから移動を開始したドラビダ人の一派は
ゴビ砂漠からバイカル湖へたどり着き、ブリアートモンゴルと混血を繰り返しながら アムール川を
くだり 日本海を南下して 日本に住み着き、砂鉄の取れる斐伊川下流で 王国を築いたといわれています。
(※斎木雲州著 古事記の編集室 他の著書 大元出版)
ちなみにドラビダ人の一部は 海を渡り南のスリランカに移住して北部に住み着きタミール人となり、今も
スリランカの多数人種シンハリ人との間で内戦を続けています。私がスリランカで働いていた1980年代半ば
たびたび内戦が激化して外出禁止令が出て多数の人が亡くなられました。
ドラビダ語にはそのほか 古代製鉄法のタタラ(激しい炎)や カネ(鉄)などがあるということです。
※詳しくは「弥生文明と南インド 大野晋 岩波書店」を参照してください。
出雲王国の春分祭、秋分祭には王国内各地から豪族が集まり 大名持の司祭のもと クナト大神をはじめ
幸ノ神三神に祈りを捧げました。
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松江市内の嵩山から見た 大神山(今のダイセン)です。クナト大神の宿るとされた山です。
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東出雲王家の宮殿のあった松江市大庭町の高台には カラス天狗広場があります。
石碑には「大山大智明大権現」と読めます。
ここは旧出雲王朝宮殿のあった大庭の地にあり、国教の幸ノ神三神のうちクナト大神が祭られている大神山(今の大山)を
遥拝した場所つまり東王家向家の霊畤(れいじ 政事を行う遥拝所でもある広場)だったと思われます。
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佐比賣山です。三瓶山なんて陳腐な名前に変り果てましたが 「四季の宿 さひめ野」なんて国民宿舎の名前に残っていて安心しました。
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出雲市の出雲神奈備神社の鳥居の正面には 猿田彦を祀る鼻高山(はなたかせん)が見えます。
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出雲の古い神社の一つ 意保美神社境内には塞の神と山の神が祀ってありました。
塞の神はサルタ彦が変化したもので、道祖神にもなりました。
村はずれや峠に安置されて、悪霊の侵入を防いだり、サルタ彦の鼻の形から男性自身を表して男女和合の神、子孫繁栄の神とされました。
山の神とはクナト大神のことです。クナト大神は伊弉諾尊(イザナギ)のモデルとされましたが 時代が下り大山祇の命(おおやみつみのみこと)とも
呼ばれるようになったという。(谷戸貞彦 幸ノ神と竜 大元出版)
記紀では 大山祇の命は咲くや木花姫(イニエ王との間にイクメ大王を生んだ阿多津姫のことを記紀はこう書き換えました)の父親と書かれた。
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出雲市の長浜神社は第六代大名持 八束水臣津野(やつかみずおみつぬ)を祀る古くて権威ある神社です。
この臣津野王は西出雲王家神門臣家の方で 第七代主王は東出雲王家向家の天の冬衣王そして
第八代主王が西出雲王家神門臣家の方で 悲劇の八千矛王(記紀では大国主と書かれた)です。
古代出雲王朝では 東出雲王家向家と西出雲王家神門臣家が 主王と副王を交互に出していたのです。
つまり臣津野王は 大国主ー八千矛王の祖父なのです。
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社務所で 臣津野の神のお札を頂いたときに写させていただいた「国来、国来(くにこ くにこ)」と叫ぶ
国引きの神 臣津野王のお姿です。越の国や新羅から 国土を引き寄せたといわれる神です。
この通称くにびき王の時代に出雲王国は領土を最大に広げたといわれて 松江市の大橋川にかかる橋も
くにびき大橋というくらい 出雲人にはおなじみの古代出雲王です。
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この長浜神社の三つ鳥居は古い形の鳥居の一つで 幸ノ神三神を祀る形です。
真ん中がクナト大神、左が佐比賣の命、右が猿田彦大神を祀るといわれています。
そしてこの鳥居形式は 大和にも移されて 魏書にかかれた二番目のヒミコの宇佐豊玉姫と
九州物部王のイ二エ王(贈り名は崇神)との間の姫 トヨ姫(豊来入姫で 記紀では豊鍬入姫とか天の菟津女の命
と書かれた姫皇女で魏書で台与トヨと書かれた三番目のヒミコ)が大和で月読みの神を祭った 檜原神社
(奈良県櫻井市三輪の大神神社裏手)の三つ鳥居にもなっているのです。
※檜原神社は2015年1月29日の NO30の記事に載せています。
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右側には 岐(くなと)の神を祀っていると書いてあります。これは道の分岐点や集落の入り口、また峠道に祀られる
道祖神のことです。つまり猿田彦を祀っているのです。
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この石像が上に載っています。この形はなんと信州各地でよく見る道祖神の一つ夫婦神(めおとがみ)の像です。
つまり夫婦和合と子孫繁栄を願う神で 猿田彦の変形です。
猿田彦は幸ノ神三神の中では若くて力強く、そして鼻の形が男性自身が強大になった時を現すと考えられて
夫婦和合、子孫繁栄の神として また悪霊の侵入を防ぐ神として いろいろな形で各地で祀られるようになりました。
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そしてこれも夫婦和合、子授け、安産の神だそうです。男性器と女性器の形の石が置いてあります。
つまりこれも猿田彦大神を祀っているのです。この石をさすりながら お願いしてくださいとかいてありました。
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伊勢一宮 椿大神社
伊勢で一番古く権威のある神社が椿大神社です。伊勢一宮は伊勢神宮ではありません。
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椿大神社の猿田彦と天の鈿女(あめのうずめ)の命
大和の出雲王家分家の登美家から分家した 宇治土公家(うじとこけ)により、はやくから伊勢に「椿大神社」
(つばきおおかみやしろ)が建てられて 出雲のサルタ彦が祀られていました。
その後大和統一が進むにつれて イクメ大王(垂仁)に追われた豊来入姫は 伊勢に逃れ
宇治土公家に保護を求めたという。
豊来入姫は 魏書に書かれた有名な二番目のヒミコ(宇佐王国の豊玉姫)の娘です。
(※ちなみに魏書に書かれた一番目のヒミコは「その姫皇女(ひめみこ)が女王に立つと長かった戦乱が収まり和国に平和が
訪れた」と書かれたのが 有名なモモソ姫です。磯城王朝第八代のクニクル大王と磯城家のクニアレ姫の娘で
磯城家当主大田田根子の世話で 三輪山の太陽の女神を祀る巫女として司祭し 各地から大勢の豪族が巻向に集まったといいます)
そして魏国の和国駐在武官の張政により豊玉姫(ヒミコ)の後継者に指名されたということは魏に認められた和国の女王ということです。
そして彼女は魏書に書かれた「トヨー台与」のことです。当時和国は魏の属国状態だったので 指名されれば正真正銘の和国女王です。
しかしイクメ大王が和国を統一すると たくさんの土産を付けて 魏国の和国駐在武官の張政を魏へ送り届けて
魏との関係を断ちます。そして邪魔になった異母兄妹の豊来入姫に刺客を放ち殺します。
彼女の亡骸は大和の登美家に運ばれて出雲族の土師氏により ホケノ山古墳(奈良県桜井市)に埋葬されました。
※ホケノ山古墳は2015年1月29日の NO29の記事に載せています。
豊来入姫は宇佐から来られた姫なので 最初は宇佐女(うさめ)の命と呼ばれたが イクメ大王が行方を追っているというので
宇佐女ではまずいので ウズメと呼ぶようになったといわれています。
記紀では天の鈿女の命(あめのうずめのみこと)が 胸を開いて乳房を猿田彦に見せて誘惑し、
猿田彦は彼女を伊勢へ連れて行ったと書かれました。なんのこっちゃ。
※伊勢の国一宮椿大神社は 2015年10月7日の記事に載せています。
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信濃の国の幸ノ神(さいのかみ)のこと
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信州山旅で白馬村の夕方散歩で見かけた白馬村の道祖神です。
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道祖神の説明看板です。
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田頭という場所の手握り夫婦神像です。
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こちらは先ほどの出雲市長浜神社の幸ノ神三つ鳥居の手握り夫婦神像です。そっくりですね。
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こちらは佐野中村という場所の祝言夫婦像です。
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こちらが 白馬村の道祖神です。
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石像は手を取り合っているように見えます。つまり手握り夫婦神像です。
それと直立した男根をもつ木の像がいくつか 奉納されていました。
これはまさしく猿田彦ですね。
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ということで 信濃の国には出雲族の風習文化が 色濃く残っていることを説明しました。
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信濃の道祖神の写真については 沢山の写真と解説が 「幸ノ神と竜 谷戸貞彦 大本出版」
に詳しく載せられています。
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※諏訪大社の分霊は のちに建御名方の生まれ故郷の出雲に里帰りしました。
出雲市斐川町名島の御名方神社です。
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古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて トップページはこちらです。
http://yochanh.sakura.ne.jp/kodaiizumo/index.html
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66 熊野三山と熊野古道 そして神武東征の道を訪ねて
2019年11月19日
熊野三山と熊野古道、そして神武東征の道
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北陸に住む友人が 最近ツアー旅行で 熊野三山を巡ったそうです。
私もかつて 世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の参詣道はすべて歩きました。特に熊野古道小辺路(こへち)、
中辺路(なかへち)、伊勢路(いせじ)はすべて熊野三山が絡みます。そして大峯奥駈道は熊野本宮大社がゴールでもあり
(逆峯)スタートでもあります(順峯)。
熊野三山とは 今回友人が巡った 熊野那智大社、熊野速玉大社、熊野本宮大社の3つの神社ですが そのいずれも
紀元前3世紀末に我が国に渡来した秦国人徐福を祀っています。
いずれの神社の主祭神も熊野速玉の命(はやたまのみこと)といいますが、和名を饒速日(にぎはやひ)もしくは火明かり
(ほあかり)と名乗った秦国人徐福のことです。記紀では素戔嗚(すさのお)とも書いていますが。
徐福の子孫たちは 饒速日の速を採り 速玉の命と呼びました。
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世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の地図です。
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紀元前三世紀末、徐福は大勢の海童たちを引き連れて 最初島根県の太田市五十猛海岸に上陸し 和名を「火明かり(ほあかり)」
と名乗ります。事前に忠実な部下の「矛卑ホヒ」を出雲王朝に使わして 上陸の許可を取り付けるという周到な悪巧みをしてからです。
ちなみにホヒの子孫が今の出雲大社宮司です。上陸した徐福は出雲に住み、出雲王家の高照姫を娶り 長男が生まれ 五十猛(いそたけ)」
と名付けます。徐福の父の名が徐猛と言ったので 「猛」を付けたのでしょう。
自分が出雲王国の王 つまり和国の王となるつもりでやってきた徐福は 当時の出雲王国の主王と副王を亡き者にしようとします。
当時の出雲の 主王八千矛(役職名は大名持で 記紀では大国主とか大黒とか大名持、大汝と書かれた)と副王の八重波津身
(役職名は少彦で記紀では事代主とか少名彦名と書かれた)をホヒや海童たちに命じて誘拐幽閉して殺害し
自分が出雲の王になろうとしますが 王国の組織がしっかりとしていて それが果たせずに いったん秦国へ帰国します。
※大名持が幽閉殺害された猪目洞窟と少彦が幽閉殺害された志津の岩屋の訪問記事はこのブログの2013年3月18日の記事です。
※徐福が上陸した石見五十猛海岸訪問記事は 2014年4月24日の記事に載せています。
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帰国した徐福は 秦の始皇帝に 更なる資金と海童たちを貰い 不老不死の薬を求めるふりをして和国(蓬莱島)へ二度目の出航をします。
そして今度は九州佐賀県の浮杯に上陸します。
今度は 和名を饒速日(にぎはやひ)と名乗り 出雲王家の九州分家、宗像家の三姉妹の末娘市杵島姫(いちきしまひめ)を娶り
次男穂穂出見(ほほでみ)をもうけます。ちなみにこのあと長女の穂屋姫が生まれ、出雲で生まれ丹後へ移住し、そして大和に移住した
徐福の長男五十猛(後に香語山と改名)と穂屋姫は結婚します。
二人のの間に生まれた「天の村雲」が 出雲王家の大和分家の登美家や賀茂家の協力で 初代大和の大王(おおきみ)になります。
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一方 徐福の次男穂穂出見は 九州物部王家を起こして その子孫が東征を実施するのです。つまり東征とは 徐福の長男五十猛の子で
徐福の孫の天の村雲が大和の登美家や賀茂家の助けを受けて成立した 大和の磯城王朝を 次男の子孫の九州物部家が倒す兄弟喧嘩です。
この史実は記紀には書けないため 御伽噺の海幸彦と山幸彦の兄弟喧嘩の話になりました。
なぜなら持統女帝は 血で血を洗う無政権交代など なかったことにして自分たちの祖先は天上から高千穂の峰に降臨したことにして
自分たちの祖先が 渡来人の征服王朝だということを徹底して隠したのです。出雲王朝なんてなかったことにしたのです。
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西暦165年頃に 九州物部王家の「彦渚武」王の皇子 物部の五瀬(いつせ)、その弟稲飯(いないい)、三毛入り(みけいり)が
第一次東征を開始、紀ノ川河口から大和入りしようとしました。
しかし紀の国は 初代大和大王 天の村雲の 腹違いの弟高倉下(たかくらじ)の地盤で、高倉下の子孫たちに
手強い反撃、迎撃を受けて 五瀬は戦死、竈山神社に葬られます。和歌山市の籠山神社も古くて大きく立派な神社です。
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竈山神社の立派な神門です。
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籠山神社の由緒書きには「神武天皇の兄が主祭神 」とかかれていますが あながち嘘ではありませんね。
弟たちが後に大和入りして架空の大君神武のモデルとなるのですから。
※竈山神社訪問記は2015年9月8日に載せています。
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生き残った稲飯と三毛入たちは一旦紀ノ川から退却し、熊野へ回り熊野川を遡ろうとします。
しかしそこでも大和の磯城王朝配下の武人たちに攻められて 動きが取れずやむなく安全な熊野川の中洲に留まります。
その地が 後に熊野本宮大社となりますが、明治の大洪水で十津川村が壊滅的な被害を受けたときに 熊野本宮大社も流されて無くなり
その後今の場所に再建されました。元宮の跡地には巨大な鳥居が立ち 「大斎原(おおゆのはら)」と呼ばれて今も聖地です。
このときの大洪水で 壊滅的な被害を受けた 沢山の十津川村の村人が 故郷を捨てて 熊野古道小辺路を歩き 高野山から大阪へ出て
北海道に移住しました。北海道新十津川村です。
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大斎原には今は巨大な鳥居がたっています。
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ここで熊野古道の写真です。まず小辺路(こへち)から
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小辺路は高野山から熊野本宮へ向かいます。しかし残念ながら和歌山県、奈良県の職員の程度が低く 世界遺産の参詣道は
ほとんど壊されてしまいました。文化遺産に対する認識が低いのですね。
小辺路も他の参詣道と同様 ほとんどがアスファルトの林道か国道で 中でも高野龍神スカイラインも歩かせます。
実際にアスファルトの道路を歩いていると 左右の山の中に いくらでも歩道を作ることができます。現に踏み後もあります。
しかしやる気がないので 林道は作っても 熊野古道の歩道、巻道はつくろうとしません。馬鹿ですね。
伯母子峠はかろうじて残っています。腰までの雪の中を歩きました。
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伯母子峠です。ここから右へ分岐すると伯母子岳へ行けますが この日は雪が深くて一人ラッセルに疲れて途中で引き返しました。
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十津川から果無峠を超えて本宮へ向かいます。果無峠付近も昔の道がわずかに残されています。
果無集落はまさに天空の集落です。
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果無集落の中を小辺路が通り、ここでは民家の縁側で休憩できます。ここで1時間くらい座って思いを昔に馳せました。
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この家のバーちゃんです。テレビやポスターに引っ張りだこの売れっ子ばーちゃんです。この写真もポスターです。
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熊野本宮大社に着きました。キレイどころがお出迎えしてくださいました。
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神社入り口です。はためく大旗には八咫烏(やたがらす)がいます。後で述べますが 立往生した物部軍を無事に大和の登尾家の地盤の
磐余(いわれ)に導いた 登美家の当主加茂建津之身に感謝した物部軍が 支那の神話にでてくる八咫烏として加茂建津之身を祭ったものです。
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拝殿には八咫烏の石像もあります。
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中辺路(なかへち)
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中辺路は紀伊田辺から始まりますがその大半が壊されていますので 途中の滝尻王子から歩き始めました。
本宮付近の湯の峰温泉は外人観光客であふれています。
本宮大社から那智大社への道で 小雲取超えや大雲取超えが人気のコースで歩くのはほとんど外人でびっくりです。
途中の小口集落に廃校を改造した宿泊施設があり 半数近くが白人の若いカップルでした。部屋は和室でトイレ風呂は共同で
食事はみんなでセルフサービスで食べます。
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大雲取り越えや小雲取超はたくさんの外国人観光客であふれていてびっくりしました。ちなみにこの日は日本人には
ほとんど会いませんでした。
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熊野那智大社本殿です。なぜか千木は物部式の横削ぎではなく出雲式の盾削ぎです。
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八咫烏がいます。
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こんな大きな八咫烏もいます。
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絵葉書でよく見る写真です。那智の滝と青岸渡寺の塔です。
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那智駅にはこんなポスターもありました。
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中辺路は熊野灘の浜も歩きます。浜の道です。潮騒を聞きながらのんびりと心和ませて歩きました。
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浜の道を歩いて新宮市内に入ると浜王子神社がありました。立ち寄って参拝しました。
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何気なく主祭神を見るとなんとびっくり 和歌山で戦死した五瀬の弟たちの 稲飯と三毛入りです。記紀には絶対に出てこない名前ですね。
記紀作者(太安万侶)にはどちらが兄なのかわからないので 物部ウマシマジという名前にして磐余入りさせ、磐余彦としています。
記紀からこぼれ落ちた真実がこんなところに転がっていて感動し しばし立ち尽くしました。
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一方新宮市内には 徐福公園なるものがあり、徐福の上陸を記念したと書いてあります。上陸したのは徐福ではなく 徐福から
8代か9代たった子孫たちです。
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中辺路最終章熊野速玉大社です。速玉の命とはもちろん饒速日と名乗った徐福のことです。
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伊勢路
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伊勢路も大半が壊されています。馬超(まごせ)峠周辺を歩くつもりで尾鷲市の観光案内書に地図をもらいに行くと係員の女性が
気の毒そうに「このあたりの熊野古道はほとんど国道に変わっています。」とおっしゃって 唯一残っている馬超峠の
コースの地図をくれました。こんな石畳の道はほんの少しです。
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馬超峠から分岐して天狗倉山へ上りました。山頂にはなんと高倉下(初代大和大王天の村雲の腹違いの弟)が祭られていました。
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山頂からは 熊野灘が眺められてしばし見とれました。
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この山頂の景色が気に入って お正月にもう一回尋ねました。熊野灘も光っていましたが 大台ケ原日の出ヶ岳も雪を被って輝いていました。
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磯城王朝側の兵士たちにゲリラ戦をしかけられて 身動きとれず 熊野川河口近くの中洲に陣取ったまま動けずにいて困った稲飯と三毛入たちは
ひそかに大和の登美家(出雲王家の大和分家)へ密使を送り 大和入りの道案内を願い出ました。
当時大和は 磯城王家が弱まり、豪族たちが割拠していたので この状態を物部家と共に平定しようと考えた 登美家当主の 加茂建津之身は
熊野川から 吉野川、高見川の川沿いの山岳地帯を案内し、物部王家を登美家地盤の磐余(いわれ)の地に引き入れました。
今のJR櫻井市駅周辺で 富家の地盤でした。
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※大台ケ原山中や高見山山中には大きな「神武」の像があり「神武天皇はこの地を通り大和入りされた。」と書かれています。
まあどのみち作り話なので どの道を通らせようが 勝手なのですが その169号線沿いの道は 一昔前まで妖怪や魔物がすむという
伯母峰峠や大台辻の険峻な峠を越える難路でした。
比較的楽に大和入りできる 168号線沿いの道ではありがたみがなかったのでしょうね。

これは大台ケ原の牛石ヶ原の神武像です。
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神武は高見山も通ったそうです。高見山にわざわざ上らなくても 磐余にはもっと簡単に行けるのになあ。
しかも登美家の当主が同行して ついているのだから。
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これが第一次東征ですが 物部家は磯城家(出雲系の登美家や賀茂家)にたちまち飲み込まれて 同化してしまいます。
そこで西暦248年から九州物部イ二エ王(崇神)により 第二次東征が始まります。
イ二エ王の皇子イクメ王(垂仁 母親は阿多津姫 記紀では咲くや此花姫)はイコマ山(イクメ王が長らくとどまったことから
その山名がきています)を越えて 幾多のドラマの末に大和入りします。
記紀は100年近く離れた この二回の東征をまとめて 「神武天皇(天皇という呼び名がつかわれるのはもっと後の時代で 天武からです。)が東征して
大和に住む蛮族を平定した」と書きました。
が 出雲族の私に言わせれば 「おまえら物部が 蛮族であり、和国最初の国家で由緒ある出雲王家を倒したのだ。」と思っています。
大和の物部王朝が渡来人の末裔の 征服王朝だなんて 絶対に書けませんよね。そんなやつらの言うことなんか誰も従いませんよね。
だから自分たちは天から高千穂に降りてきた神だ なんて言い訳しているのです。
天上世界から見送る役目の神様の中に 徐福のおかんの 高木千々姫がいるのが 笑えますよね。
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※イクメ王が苦労の末に生駒山を超えて大和入りし、大和の大王となられた詳しいいきさつはこのブログの2016年1月11日の
往馬神社(いこま神社)に載せています。
またこの時の記事には事代主の姫皇女の美保津姫を祭る村屋神社や 徐福の長男で五十猛改め香語山と改名した香語山を祀る
岐多志太神社も載せています。
また物部稲飯や三毛入りが加茂建津之身の先導で大和入りした時に通ったであろう 宇陀市榛原の八咫烏神社の訪問記も載せています。
この地まで来たら 登美家の地盤の磐余はすぐそこなので 物部軍はようやく安心し、加茂建津之身に感謝して この神社を立てたのでしょう。
加茂建津之身(かもたてつのみ)の名前が鳥のように聞こえ、それで支那の神話に出てくる八咫烏を連想したのでしょう。
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磐余入りした物部家の王が 稲飯か三毛入か分からないので 記紀製作者は「物部ウマシマジ」なる架空の人物を創り上げ、
これを磐余彦(いわれひこ)と名づけました。後の贈り名が神武です。
それゆえ記紀では稲飯とか三毛入と言う名前は絶対に出て来ません。
神武大王のことを記紀は「神大和磐余日子(かむやまといわれびこ)」と書いてますね。
※大王の名前を それまでの実名から 漢字二文字にして すべて変えてしまったのは 天皇制度を利用して 千年以上に渡り徹底して私服を肥やした 藤原家の始祖不比等が
大友の皇子の曾孫の近江淡海に命じて変えさせたものです。記紀を書かせて 徹底して日本の歴史を変えてしまったのも不比等です。
そして道案内をしてくれた登美家の加茂建津之身に感謝して 秦国の神話に出てくる「ヤタガラス」と称して長く熊野本宮大社はじめ各地の物部系神社に祭るのです。
熊野三山を歩いたときには私、出雲王国民の末裔としては 本殿の徐福にお参りせず 末社のヤタガラス神社にだけお参りしました。
出雲王家の血を引く 加茂建津之身が祀られていますから。
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話は変わりますが 和歌山県、奈良県、三重県の県庁の馬鹿役人たちは 世界遺産の参詣道の価値と歴史的意義が分からず ほとんどの参詣道を破壊してしまいました。
今は ほとんどの熊野古道がアスファルト舗装の林道か国道です。テレビで良く放映している 石畳の道はほんの一部分です。
大峰奥駈道は比較的保存されていますがそれでも3分の1が林道で潰れています。
世界文化遺産高野町石道(空海の母上の眠る慈尊院から空海の眠る奥の院までの表参道)などは、 ゴルフ場の中を通していて看板に
「ゴルフボールが飛んできて当たっても知らんけんね」と書いてあり 唖然とします。この道を歩くたくさんの外国人たちに恥ずかしい思いです。
また 小辺路を歩いていたときに 宿場町でお昼ご飯を食 べたときには 店のオバちゃんが「小辺路を歩くなんてほとんどが 外国人や。日本人は観光バスでやってきて
メインの観光スポットを見て さっと立ち去っていく。あんたは歩くだけ偉い」とほめてもらいました。
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神武東征の始末記 その1
記紀は天の村雲の名前を消して、神武とし、しかもその存在期間を出雲王朝の初期の紀元前6世紀頃まで引き上げたのでいろいろと
無理が生じています。
まず大王の数が足りないので 大王でない人を大王にしています。九州を出たことのない物部家のイニエ王を大和の大王にしたり(崇神)、
息長帯比売(神功皇后)の部下の 豊前中津彦を大王にしたり(仲哀)、また100歳以上生きた人を大幅に増やしました。
特に神武127歳、イクメ(垂仁)139歳、オシロワケ(景行)149歳、オオサザキ(仁徳)143歳など その他実際よりも長命の大王をたくさん作り上げました。
神武の東征を出雲王朝の初期まで 数百年引き上げたので 大王の数が足りないくせに 磯城王朝2代の沼川耳(スイゼイ)から9代の大日々(開化)
まではそのまま採用していますが 10代日子坐、11代彦道主は消されています。なぜでしょうか。
ちょうど 磯城王朝と物部王朝との政権交代期なのでなにかまずいことでもあったのでしょう。
10代日子坐、11代彦道主は消されていますが 記紀は10代イニエ(崇神)と14代中津彦(仲哀)の二人を大王に仕立て上げて挟み込み
大王の数合わせはしています。大王の数は合わせているのです。巧みな作り話ですねえ。感心します。
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神武東征の始末記 その2
作り上げられた神武大王(神大和磐余彦)は ご丁寧に宮内庁によりお墓まで作られました。というより 登美家のお墓の中でも大きなものを
勝手に神武の墓だとしているのですから、宮内庁もすることが出鱈目ですね。
しかし宮内庁は 皇室の歴史はすべて 作り話の記紀に従わざるをえません。そうしないと今の皇室の存在もおかしなことになりますから。
ですから 神武以外の墓も 架空の皇子ヤマトタケルのお墓もありますし、魏書に登場する第一のヒミコ(姫皇女)のモモソ姫と
100年以上時代が経った晋書に登場する大和姫(5番目のヒミコです)とをごちゃまぜにして「大和トトビモモソ姫」のお墓もでっち上げています。
このお墓も登美家の王のお墓です。無茶苦茶ですね。一度嘘をつけばさらに嘘を重ねなくてはならなくなり 嘘のスパイラルになりますね。
そんな嘘で固めた皇室よりも、もっとちゃんとした歴史に基づいた史実をさらけ出したほうが 国民に親しまれやすいと思いますが。
出雲王家を徐福の血を持つ物部家が倒し、そこに渡来朝鮮人の辰韓の王子日矛(ひぼこ)の血をひく息長姫はじめ息長家の血が幾度となく入り
平群王朝の和の五王が続き、オシワカ、コウケイ、オケ、ワカサザキ(武烈)と続きいったん大和朝廷は途絶える。
旧出雲王家の若君オホドの君が 三国国造家の蘇我総本家(物部の宿祢武内彦から武内の臣太田根に改名の子孫)の振り姫に婿入りしたオホドノ君が
大和朝廷に迎えられ 男大迹(おほど)大王となられて 億計(オケ)大王の娘手白香姫(たしらかひめ)を迎えて広庭大王(欣明)が生まれて以来
今の皇室が続いていると なぜちゃんと国民に知らせないのか ふしぎです。
戦前戦中の皇国史観は 明治になり天下を取った薩摩長州の無学な下級武士たちがつくりあげたものだからです。
そろそろ持統や不比等が作り上げた 記紀の呪縛から解き放たれたらいいと思いますが。
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65穂高神社訪問記(2013年9月23日)を再編集しました。
2019年4月9日
穂高神社 長野県安曇野市 穂高町 2013年9月23日
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以前山旅の途中で訪れた 穂高神社の再編集です。
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神社入口です。
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手水から湯気が上がっていました。お湯なのでしょう。
諏訪大社のたくさんある社のどこかにも温泉のお湯の手水がありました。
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社務所、拝殿など一連の建物は 新しい建物でした。最近 建替えられたのでしょう。
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広い境内には沢山の人が いらっしゃいます。地域の人の信仰を集めているようです。
中央は舞殿でしょうか。
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神社の説明看板です。
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神社の由緒書きです。
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これによりますと この神社は海の神様を祀っているそうです。
海神(わたつみ)は御伽噺の「海彦、山彦」に出てくる山幸彦が尋ねた竜宮に住んでいるという
豊玉姫の父神ですね。
穂高見の神は綿津見の神の子供と書いてあるので つまり山幸彦の系統を祭っているという事です。
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ここで海幸彦(兄)と山幸彦(弟)について
兄の海幸彦は 徐福の長男 五十猛が起こした海部(あまべ)家をいい、弟の山幸彦は 徐福の次男
穂穂出見が起こした九州物部家を言います。
紀元前3世紀末に 石見の五十猛海岸に 沢山の海童(青年男女)たちを引き連れて上陸したのは
秦国人徐福でした。事前に忠実な部下の矛卑(ほひー今の出雲大社宮司の祖先)を出雲王家に使わして
上陸許可を取るという 周到な準備のもとに実行されました。徐福は自分が和国の王になるつもりでした。
徐福は和名をホアカリと名乗り 出雲王家第七代主王天の冬衣の姫、高照姫を娶り長男「五十猛」をもうけます。
その後部下の矛卑(ほひ)や海童達に命じて 出雲王家の主王八千矛や副王八重波津身を相次いで
幽閉殺害しますが、結局王にはなれず 一旦秦国に帰国して始皇帝に更なる資金と海童達を貰い
二度目の上陸を佐賀の浮杯に果たします。そして和名を饒速日(にぎはやひ、ににぎね ともいいう)と名乗り
出雲王家の分家九州宗像家の市杵島姫 を娶り次男穂穂出見と長女穂屋姫をもうけます。
穂穂出見が九州物部家の始祖です。
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一方長男五十猛は 成長して丹波に移住して「海の香語山(あまのかごやま)」と名乗り海部家を名乗ります。
その後大和葛城地方に移住します。徐福に殺された八千矛や八重波津身の皇子たちは既に大勢の出雲族
とともに葛城地方へ移住開拓して 大きな地盤を築いていましたが 遅れてきた香語山は大勢の海童達を
引き連れていたので 出雲王家の皇子の 味鋤高彦や奇日方は 香語山を大和の王と認め味鋤高彦の姫大屋姫を
嫁がせます。生まれた皇子が高倉下です。
一方香語山は 異母兄妹の穂屋姫を九州物部家から呼び寄せて妃として海の村雲(発音が同じなので後に天の村雲とかかれます)
をもうけて 天の村雲が 出雲族(磯城家、高鴨家)の支持を受けて 初代大和大王となります。
これが山幸彦のモデルです。
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一方九州物部家は 180年頃に東征し熊野に上陸するも 大和側の抵抗で北上できず熊野川河口の中州で
立ち往生していました。(その跡地に熊野本宮大社が建てられましたが 明治の大洪水で流されて
現在は山の中腹に移転されました)
そこで 当時大王家の力が衰えて豪族達の争いで混乱している大和に密使を送り 富家の加茂建津之身の誘導で
ようやく富家の地盤の磐余の地に入ります。
物部稲飯、三毛入兄弟は 「磐余彦」と呼ばれます。
記紀の編集者はこの名を利用して 初代大王の名を神大和磐余彦と作り変えてしかも時代を
古代出雲王朝の始まりの 紀元前6世紀頃まで引き上げたので 嘘が嘘を呼び つじつまがあわなくなり
190歳くらいの大王が何人も作られました。
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その後物部王家は 三代続けて登美家(磯城家)から妃を向かえ 直ぐに磯城王家に飲み込まれてしまいます。
そこで約80年後の232年に 九州物部王家のイ二エ王は再び東征を開始して南下します。
南下して薩摩の阿多津姫との間にイクメ皇子をもうけます。さらに当時の豊王国の豊玉姫を
妃として迎え 物部豊連合王国を造り 東征の準備を始め 豊玉姫との間に豊彦、豊姫をもうけます。
御伽噺のなかで 竜宮城の姫が 豊玉姫とかかれ、その父が海神(わたつみ)とかかれました。
釣り針を兄の海幸彦に返しに行く山幸彦を送って海辺まで来たとき 山幸彦の子を
急に産気ずき 山幸彦が産小屋の屋根をウガヤで葺き終わらないうちに豊玉姫はワニ(出雲では鮫をワニ
と呼びます)の姿になり豊彦を産みます。それで豊彦は「渚建ウガヤ葺きアエズ」と名付けられました。
ちなみに物部彦渚建とは 第一次東征の張本人の王の名前で 第一次東征時紀ノ川の河口で戦死した
物部五瀬や熊野から大和入りした稲飯、三毛入たちの父王です。
豊玉姫が ワニの姿に変身したという事は 宇佐豊玉姫が出雲族の血を引いているという事を示唆しています。
宗像家に始まる宇佐王家は 出雲王家の分家ですから。イズモ族はワニを崇拝していました。
ちなみに 第二次東征で大和入りして 大和大王となったイクメ大王は 後の贈り名を垂仁となづけられました。
そして一度も九州を出ずに亡くなったイ二エ王は 記紀の作り話では 崇神大王と 大和の大王にでっち上げられました。
嘘が嘘を呼び 宮内庁は磯城家の古墳を崇神大王稜として管理しています。馬鹿ですね。
豊彦、豊姫(魏書で台与トヨと書かれました)は大和では 豊来入彦、豊来入姫と呼ばれますが
豊来(とよき)では 征服王朝と言うのがばれてしまうので 記紀では 豊鍬(とよすき)入彦、豊鍬入姫と書き換えられました。
一度嘘をつくと永遠に嘘をつき続けなければバレますからね。
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一方 天の(海の)香語山に始まる海部家の分家として 尾張家が別れます。
これは 高尾張邑を地盤としたからそう呼ばれます。現在のダイヤモンドトレイルの岩橋山の東側で
天の香語山の皇子高倉下が母親で出雲の姫である大屋姫と共に住み 「大屋」の地名が付いたあたりと思います。
この地域は 竹の内峠の東側でイズモ式の銅鐸の発見された名柄を中心とした地域より少し北の地域と思われます。
また海部家の分家として 阿曇(安曇)連家ができます。
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ということで 前置きが長くなりましたが この神社で祀られているのは「海の神様」ではなくて 海部家なのです。
海の幸と山の幸の両方の神得があるというのは 海幸彦と山幸彦の両方の父親が
饒速日(徐福)だからでしょう。
物部系の神社では 饒速日(にぎはやひ)やニニギ、そしてホアカリはすべて徐福の和名です。
主祭神 はニニギノ尊と書いてありますね。
海部家は海の民(うみんちゅ)ではなくて 徐福と出雲王家から生まれた大王家なのです。
穂高見の命は神武の叔父とかいてあり、小説の記紀の中の神武は架空の人物なので 記紀が出来た後から
記紀にあわせて それまでの地元の神をリメイクして作られた神なのでしょう。ワタツミノ神も御伽噺の中の神で
アマテラスも古代出雲王国国教の幸の神三神の佐毘売の命をモデルに記紀で作られたので
徐福(ニギハヤヒ、ニニギ)以外は すべて記紀にあわせていますね。
当たり前ですね。時の最高権力者右大臣の不比等には誰も逆らえませんでしたから。
さからったり、記紀と違う記述をすれば 即死罪ですから。
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境内に神馬社がありました。
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神馬のモデルは木曾馬だそうです。
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拝殿の奥に 本殿が見えていますが、本殿の建物は見れませんでした。
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安曇連比羅夫の像です。
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阿曇連比羅夫の説明です。
山背国(やましろのくに)は かつて日本の地方行政区分だった令制国の1つである山城国の別名です。
残念ながらこの注釈は 間違いです。大阪府南河内郡河南町にも そのお隣の太子町にも
ヤマシロ と言う地名はありません。現在の京都府南部で木津川の北の地域です。
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これも少し補足説明が必要です。
660年7月 新羅が唐の援軍を得て百済を攻めます。
10月 百済が占領されて沢山の百済人が和国に逃れてきて 助けを求めます。
661年5月 斎明女帝が新羅討伐に出発します。
7月 斎明女帝は筑前朝倉宮で死亡
8月 海部家の分家 阿曇連比羅夫が将軍となり百済援護に出発
その後多臣薦敷(太安万侶の祖父)の妹を百済王子豊ワの妻として与え
百済へ送り届けた。
662年8月 上毛野君稚子(かみつけのきみわかこ)を将軍として新羅討伐に向うも
白村江の海戦で大敗し百済の民を乗せて敗走帰国
665年 間人皇太后難波宮で死亡
667年 大津京遷都
668年 天智大王即位
671年 天智大王死亡
672年6月 壬申の乱
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壬申の乱の吉野側の大海人の皇子は海部家ではなくて 摂津の国住吉神社の社家の津守連大海の妻が
宝姫(皇極女帝)の産んだ皇子の姥になったので 大海人彦と呼ばれたのです。
吉野側についた豪族達は 多の臣品治(安万呂の父)、山辺の君安麻呂(太安万侶)、大伴吹負
忌部子人、そして阿曇の連稲敷たちでした。
阿曇連一族は古代史で大変活躍したひとたちです。
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境内には舟の骨組みがありました。
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秋祭りで毎年この舟が使われるそうです。
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例祭のポスターが張ってありました。
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「古代出雲王朝ゆかりの地を尋ねて」はこちらから入れます。
http://yochanh.sakura.ne.jp/kodaiizumo/index.html
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参考文献 斎木雲州著 大元出版 飛鳥文化と宗教争乱、古事記の編集室、御伽噺とそのモデル、
出雲と蘇我王国
勝 友彦 大元出版 親魏和王の都
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64 「近つ明日香」訪問記 その1 2019年3月12日
男大迹大王の孫である推古女帝が親族の古墳を集めて造営させたちいきです。
その推古、用明、敏達、幸徳の各陵を巡りました。
また合わせて 男大迹大王のひ孫の上宮太子(聖徳太子)の陵とその皇子たちの
出雲での足跡も合わせて載せました。
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近つ明日香訪問記 その1
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太子町の地図です。
その1で 推古陵、科長神社
その2で 用明陵、孝徳陵、敏達陵
その3で 上之宮太子(聖徳太子)墓所の叡福寺 以上を尋ねました。
またその3で 太子の息子達の出雲での足跡も載せています。
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オホド大王(継体)から続く大王家の系図です。
今回は赤で囲んだ大王の陵を尋ねました。唯一上之宮法王だけが大王ではありませんが。
またこの時代 まだ天皇と言う言葉は無かったので 大王(おおきみ)という呼び名で統一しています。
系図は大元出版 斎木雲集著「飛鳥文化と宗教騒乱」によりました。
また斎木先生の了解済みです。
※オホド大王の足跡を尋ねた旅は このブログの2018年4月5日の越前桜旅に載せています。
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この系図を見て驚いた事があります。
持統女帝が指示して 不比等らが書いたとされる記紀の中で 初代大王の「天の村雲」の名前と存在が消されて
神武なる架空の大王がでっち上げられました。
しかも その登場時代が 出雲王朝初期の紀元前6世紀ころまで 遡らせたのは 天の村雲が兄妹の結婚で
生まれたのを 持統が嫌い、それで 和国の歴史を捻じ曲げたと思い込んでいました。
紀元前3世紀末に石見五十猛海岸に上陸渡来した 秦国人徐福は出雲王家の第七代主王(役職名大名持ち)
天の冬衣の姫 高照姫を娶り和名を「火明り、ほあかり」と名乗り長男五十猛を設けます。
そして部下の穂日(今の出雲大社宮司の祖先)に命じて出雲王国の主王八千矛と副王(役職名事代主)
八重波津身を幽閉殺害し 自分が和国の王になろうとしますが 結果果たせず 一旦帰国しました。
そして秦の始皇帝に更なる資金と人間(海童と呼ばれる多数の青年男女)をもらい 二度目に佐賀の浮杯に上陸します。
徐福は和名を饒速日(にぎはやひ)と名乗り、宗像家(出雲王家の分家)の三姉妹の末娘の市杵島姫を娶り
生まれた次男の穂穂出見(ほほでみ)が九州物部王家を起こします。
ついで生まれた穂屋姫と 長男の五十猛が結婚し生まれたのが天の村雲で 当時大和の葛城地方に移住していた
出雲王家の皇子たち 味鋤高彦(あじすきたかひこ)や奇日方(くしひかた)などの協力で 初代大和大王に就きます。
これを持統が嫌ったのだと 思い込んでいましたが この系図を見ると 母違いの兄妹で結婚するのは
ありふれていますね。この時代は そんなにタブーではなかったのですね。
ということは 持統や不比等が嫌ったのは 自分達の祖先が 渡来人で しかも出雲王家を倒した
「征服渡来王朝」だというのを隠したかったのですね。だから自分達の祖先は高天原から高千穂に
降りてきたなんて童話が必要だったのでしょう。
高天原から神々を送り出して手を振ったとされる神々の一人に 「高木千千姫」という徐福のオカンの名前が
書いてあるのは 笑えますね。
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太子町 その1
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推古陵
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全体の写真です。こんものとした小さな丘がお墓です。周りはすべて田圃です。
長い間に少しずつ削られて田圃になったのでしょう。もともとは巨大な古墳だったはずです。
理由は後で述べます。
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陵の正面です。
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宮内庁の説明看板です。ここには竹田皇子(推古、敏達の間の皇子)も埋葬されているそうです。
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木の鳥居の奥は雑木林になっていました。
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推古の時代にはまだ「天皇」という言葉はありませんでした。
近年宮内庁がこの石碑を建てたのでしょう。
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陵の裏側です。古墳が削られて畑になったのがよく分かります。
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推古女帝は 堅塩姫(石川の臣稲目の娘)と欽明大王の皇女として生まれ額田部の皇女と名付けられます。
欽明大王は オホド大王と手白香姫(オケ大王の皇女)との皇子なので 額田部皇女は 出雲王家の血とともに
途絶えた大雀(おおさざき)王朝の血を引いています。
石川の臣とは武内の臣大田根の子孫で 出雲王家の血を引いています。
※(武内大田根は当初は九州物部王家のイクメ王に付き従い 武内の宿禰と名乗ります。宿禰とは 物部王家
の重鎮の称号です。
彼は 魏へも度々朝献に行き 魏書にも名前が載ります。イクメ王の第二次東征に参加しますが
後にイクメ王に反旗を翻して磯城王朝側に付きますが 戦に破れ伯耆に逃れます。
しかし イクメ大王の放った刺客に追われて出雲へ行き 出雲王家に匿われ 出雲の姫を娶り
以後は出雲王家の重鎮の称号 臣おみ を名乗る事を許されます。)
武内臣大田根の足跡は このブログの 神原神社遺跡 2015年11月13日
宇部神社 2017年10月12日 に載せています。
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一方オホド大王と手白香姫の間に生まれたヒロニワ大王(欽明)は前大王の押楯(宣化)と橘中姫(渡来朝鮮人
卑矛ひぼこの子孫 息長家(おきながけ、息長帯姫「神功皇后」の実家)の姫)との間の石姫を皇后として迎えます。
そして生まれた太玉敷皇子を大兄(おおえ、大王家の跡取り)とし、後の敏達大王となります。
太玉敷皇子は11歳で大王に即位し敏達大君となり、15歳で息長家の息長真手王の娘広姫を皇后とします。
敏達の皇后となることを期待していた 異母姉弟の額田部皇女は 広姫を非常に憎んだといわれています。
広姫は息長彦人大兄王を生んだ後 謎の急死をされます。そしてその後敏達大王は額田部皇女を皇后とします。
この息長系(朝鮮系)の后と石川臣系(出雲系)の后の生んだそれぞれの皇子がその後 熾烈な大王の座をめぐる確執
を繰り広げます。
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また額田部皇后は 和国古来の満月の母の日の神事、小さな皿に御食(みけ)を入れて神前に捧げる神事を
率先して行ったので 御食炊屋(みけかしきや)姫皇后とも呼ばれました。
585年8月に敏達大王は突然病死されます。額田部皇后の落胆は非常に大きかったといわれます。
我が皇子の竹田皇子を大王にするには未だ若すぎたので、自分の兄の豊日大兄王をワンポイントの
大王として 自分が太后として権力を握ろうとします。
当時仏教が伝えられて 崇佛派の筆頭 石川臣麻古と神道派の太后とは仲が非常に悪かったのですが
叔父である石川臣麻古を訳語田(おさだ)宮に呼び
以後は仏教寺院の建設に反対しない事、自分が太后として実権を握る事、兄の豊日大兄を大王とすること、
石川臣の領地の一つ「近津飛鳥」を国費で購入し、石川臣の血を引く大王の陵を作ることを承諾させます。
この陵の中心に科長神社を建設したのです。この太子町の近つ飛鳥の地に多数の古墳があるのはそのためです。
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科長(しなが)神社
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この神社はわかりにくかった。地元の方に聞き回り ようやく分かった。
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ここを右へ曲がり坂道を登ります。
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やがて神社らしき建物が見えてきました。
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ようやくたどり着きました。
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広い境内です。
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正面に拝殿があります。
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拝殿の横から後に回れます。回り込むと鳥居と本殿があります。
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本殿は残念ながら「大社造り」ではありませんでした。
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でも千木は 物部様式の横削ぎではなくて 出雲式の縦削ぎです。
推古女帝はオホド大王の孫ですから 当然自分は出雲王家の血が入っているのを知っていたのでしょう。
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小野妹子の墓
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科長神社の横に長い石段がありました。
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登っていくと大きなお墓があります。
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なんと小野妹子のお墓だそうです。
小野妹子は国使として 大唐へ(当時は隋の国)渡ったことで有名です。
小野妹子は第六代大和朝廷大王(磯城王朝の大王)の国押人(くにおしひと)の末裔だという
うわさが流されているようです。(※某テレビタレントが小野妹子の子孫だと仰っているようですが)
天の村雲、沼川耳、玉手看、スキトモ、カエシネに続く国押人は西暦107年に後漢安帝に朝献したことが
支那の歴史書に書いてあります。
が その息子フトニ大王(後の贈り名は孝霊)は欲に駆られて自分達の本家の出雲王家を
攻め立てて(第一次出雲戦争)大和を離れます。
その間に九州物部王家の第一次東征部隊が 大和の登美家加茂建津之身の誘導で大和入りします。
その結果フトニは 大和に帰れなくなり伯耆の国で 余生を過ごします。
ですから 国押人の系統も フトニで途絶えますが。
だから国押人の子孫と言うのは 非常に怪しいですね。
フトニが大王でなくなり ただの地方豪族として 愛人と余生を過ごした邸宅跡の「高杉神社」
訪問記は このブログの2016年11月22日に 載せています。
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近つ明日香 その2へ続く
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64 「近つ明日香」訪問記 その2
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近つ明日香訪問記 その2
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用明大王稜
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先に述べたように 用命大王は額田部皇后が わが子竹田皇子を大王にするまでのワンポイントの大王として
自分の兄の豊日大兄王を 大王にしたのである。
用明大王は 祭祀の席で 官人たちに「朕は三宝に帰依する」と仏教を採用する事を宣言した最初の大王です。
それにたいして 物部守屋と中臣勝海が「なぜ 自国の神に背き 外国の神を敬うのか」と抗議して退席したといわれます。
このことがのちの宗教騒乱を招きます。
また彼は祖父の継体大王を尊敬していたから 祖父の故郷出雲から 古墳技術者を呼び寄せて
池辺宮の南に 寿陵(生前に造営する陵)の桃原陵を築いた。それは出雲式の正方形の陵といわれています。
ちなみにこの桃原陵は のちに推古太后により土が取り除かれて 石室がむき出しに取り残されます。
それが石舞台古墳です。
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物部守屋は物部家の統領であり 第二次東征で大和入りして 石上神社で政治を行った物部イクメ大王の子孫です。
そして石上神社の社家として 宮中祭祀をつかさどっていました。
そして中臣家も宮中祭祀を執り行う家系なので 二人は 仏教が盛んになれば自家の権利が失われると
仏教に強行に反対したのです。
また用明大王が強大になり その皇子の上之宮大兄(聖徳太子)が次の大王になれば
自分の息子の竹田皇子は大王になれないと 額田部皇后は 危惧しました。
そこで皇后は 物部守屋と中臣勝海を密かに呼び 用明大王を襲う事を二人に指示したのです。
二人は穴穂部皇子と宅部皇子も引き入れて 私兵を引き連れて池辺の宮を襲い 用明大王を殺害しました。
ちなみに 記紀では587年に用明大王は病死したように見せかけていますが 記紀を作成させた
最高権力者の右大臣藤原不比等が自分の祖先の悪事を書かせるはずはありませんよね。
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用明大王の強大化をおそれた額田部皇后が 我が娘の貝蛸皇女と上之宮大兄王のあいだの皇子の
額田部財王(たからおう)と額田部日置王を出雲に赴任させて遠ざけていました。
それでお二人から旧出雲王家の富家に そのあたりの情報は逐一知らされていたそうです。
上之宮大兄王は 後に父親の復讐にもえて 物部守屋を河内渋川の守屋邸で守屋を攻め滅ぼします。
後で述べます。
※ちなみにこの本の著者斎木雲州先生は 富家の末裔の方です。
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正面奥の丘が用明陵です。駐車場のバイクはわが愛車です。
このあたりは道が狭く 駐車スペースも無い為 バイクでしか行けません。
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駐車場を左に行くと 陵が見えてきます。
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正面です。この日はたまたま宮内庁職員の方が清掃と剪定をされていました。
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宮内庁の看板です。
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石碑名盤が建ててありますが これも最近の物でしょう。
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背後の岡の雑木は 伐採できないものなのでしょうか。もともとの古墳には木など生えていなかったのに。
出雲の古墳は ほとんどが当初の姿に復元されていますが。頭の固い宮内庁は
なにか特別のルールでもあるのでしょう。
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敏達(びだつ)大王陵
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欽明大王と石姫との間の皇子が太玉敷皇子です。
石姫は宣下大王と橘仲姫(息長家)の皇女ですので 太玉敷皇子は出雲王家の血とともに朝鮮人卑矛
(ひぼこ)の血もひいています。
太玉敷皇子は11歳で父広庭大王(欽明)のあと大王に就任し敏達となります。
そして15歳になると 母の里の息長家から広姫を迎えて皇后とします。
額田部の皇女は太玉敷皇子の后になりたかったので 広姫を大いに恨んだといわれます。
これで大王家はますます朝鮮系の血が濃くなります。
広姫は長男息長彦人大兄(田村王、のちの舒明大王の父)を産み さらに長女橘姫
(後の尾治大王おわりおおきみ の皇后)を生みます。
そして磯津貝姫を産んだ後 何故か急死されます。
その直後に額田部皇女が后となり 竹田皇子(後に暗殺されます)、尾張皇子(後の尾治大王)を産みます。
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敏達大王は仏教を好まず 読書を好んだといわれます。
そして585年8月に病没されます。即位が572年なので13年の治世です。
11歳で即位して24歳で亡くなられた 非常に短命の方です。
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敏達陵はとても分かりにくい場所でした。同じ場所を何回もグルグル回りました。案内看板が
とても分かりづらく、たまたま散歩中の叔父さんに尋ねると「ああ、敏達さんはねえ」と教えてくださいました。
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畑の中を歩いていきます。
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やがて正面に陵が見えてきました。
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広い陵ですがここも雑木に覆われていました。
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宮内庁の看板ですが 別におかしな事は見当たりません。宮内庁の看板には時々間違いを書いていますが。
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孝徳陵
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前述の敏達大王と息長連広姫の皇子が息長彦人大兄王でその皇子が田村王です。後の舒明大王です。
当時の大王は石川臣系が続いていました。それに対して朝鮮系の息長家は大いに危機感をもっていました。
そこで息長系の田村王は親しかった 中臣御食子に相談しました。
中臣家は鹿島神宮の神官の分家で 豊後に移住して中津彦(記紀では仲哀とかかれ大王扱いですが
息長姫の部下で 三韓征伐を断り 長姫とは別れています。)の側近となり
息長帯姫の時代から宮中祭祀の役をもつ家柄となりました。
御食子は まず石川臣の主だった人を一人ずつ誅殺していく事。そして既に石川臣家へ嫁いでいた
息長系の宝姫を離婚させて 田村王と結婚し 息長系の結集を図ることを進言しました。
宝姫は既に 大海人の皇子を産んでいましたが 石川の臣武蔵と別れて田村王と結婚します。
病弱で寝込んでいた 尾治大王のもとへ 御食子の進言で見舞いに訪れた田村王に 尾治大王は
次の大王を譲ったと 大臣の石川雄正に伝えます。
驚いた雄正の弟の境部麻理勢は あくまで大兄である山背大兄が次の大王だと言い張ります。
御食子は それは尾治大王の意思に背く事だと 官兵を集めて 麻理勢を誅殺します。
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629年に田村王は即位し 舒明大王となります。そして630年に宝姫を皇后とします。
宝姫は舒明との間に 葛城の皇子(後の中大兄)を産みます。
その葛城の皇子と中臣鎌子の軍勢が 641年3月に突如 大臣石川雄正の豊浦の邸宅を取り囲み
誅殺します。大豪族石川臣家があっけなく 不意打ちにより倒されてしまいます。鎌子の画策です。
葛城の皇子は雄正誅殺の功績で 大兄に指名されて 中大兄を名乗ります。
その年の10月に舒明大王は没します。しかし中大兄と古人大兄という二人の大兄が居るので跡継ぎが決まりません。
そこで643年に宝姫皇后は 自ら即位して 皇極女帝となります。
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宝姫皇后は中大兄を次の大王にしたいと思いますが 舒明大王には先妻との間に 古人大兄がいます。
そこで 未だ若い中大兄を次の大王にする前に 弟の軽王をワンポイントの大王にしようと思います。
推古がたくらんだ兄用明を利用した方法と同じですね。
軽王を呼びつけて「古人大兄を出家させたら お前を大君にする」と持ちかけます。
軽王は はかりごとをして古人大兄を出家させて吉野へ追いやりますが 古人大兄は最終的に
誅殺されます。
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645年に軽王は即位して 孝徳大王となります。しかし政敵を次々に誅殺したりしたので 人心が離れ
政権が不安定になります。自身も暗殺をおそれて 難波の各地を点々としたり 有馬温泉に逃避したり
しますが 649年に難波豊崎宮が完成し そこに移ります。
その後 年号を白雉に変え 唐からの帰国僧 高向玄理や南渕請安らの意見を入れて中央集権化を
進めていったとされます。
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そして孝徳大王はわが子 有馬の皇子を次の大王にしようと画策を始めます。
このままでは危ないと感じた中大兄と中臣鎌子は654年に「都を飛鳥に移す」と宣言して 孝徳大王の皇后の
間人皇后とともに飛鳥に移った。
間人皇后は 孝徳に誅殺された古人大兄の妹で 兄と その子供達が 全員孝徳に誅殺されたのを恨んでいたと言う。
難波豊崎宮にとりのこされた 孝徳大王は 急激に政治力が衰えて 寝込むようになります。
654年の暮れに寝込んだ大王の見舞いに 間人皇后が 難波の宮へ見舞いますが その時何故か
大王は急死します。
翌年の655年に間人皇后は大王就任を宣言します。
と言うことで 孝徳大王も女帝に操られ、女帝に利用され、中臣の鎌子のどす黒い謀略にかかって死んだ
哀れな大王の一人です。
ちなみにこのどす黒い欲望の中臣の鎌子は 後の世に自分の名前が残るのを嫌い 中臣の鎌足と改名し
その後朝廷から 数々の陰謀のご褒美に藤原性を貰い その後千年以上朝廷を食い物にして藤原家は生き延びます。
明治時代の近衛文麿もこの鎌子の子孫です。
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この時代 毒を相手の食事に与えて 死亡させるというのは 普通におこなわれていたのですね。
「何故か急死します」と書いたのも怪しいですね。
例えば イクメ王が第二次東征で 大和入りしても部下の田道間守(朝鮮人卑矛の子孫)が進軍駐留した大和葛城地方で
勢力を広げて大王のように振る舞います。その地はタジマがなまって タイマ(當麻)といわれます。
困った 生目(いくめ)王(後の贈り名は垂仁)は 旧出雲王家の富太田彦に出兵を頼みます。
太田彦は野見と名前を変えて大和入りして 田道間守の軍勢を蹴散らします。
この事件は 当麻蹶速(たいまのけはや)と野見の宿禰 (のみのすくね)の相撲の試合と言う話に置き換えられて
相撲の始まりだと 記紀に書かれました。
まったく 持統、不比等はとんでもなく 和国の歴史を捻じ曲げたのですね。
この後イクメ王は磯城王家を倒し 名実共に和国の大王となります。
その功績で野見太田彦は イクメ大王から 大和の磯城、磐余の富家の領地を回復され、また宿禰の称号を貰います。
そして 野見の宿禰 としてイズモへ帰宅する途中にたまたま立ち寄った辰野の地(今の兵庫県龍野市)で受けた接待で
毒を盛られて 急死させられました。後でわかったのですが その家は 朝鮮人卑矛の子孫と言うことだったのです。
卑矛は最初和国に来たときにイズモに上陸しようとしますが 出雲の掟を守るか と聞かれて
イヤだと答え 上陸を拒否されます。
その後出雲王国内を転々としますが 人のすめない由良川の中洲湿地帯に上陸を許可されますが
人が住めるように干拓したり 排水工事が大変だったと 長いこと出雲王国を憎んでいたと言います。
何百年もたった子孫が その仕返しをするなんて 朝鮮人の子孫はこわいですねえ。
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ここは孝徳陵の駐車場です。後の丘が陵です。
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玉石の敷き詰められた参道を歩いていきます。
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通常はここまでしか入れません。
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少し横に入れたので 正面を見せてもらいましたが特に普通でした。
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昔の石工が手彫りで彫ったような味のある字体ですね。
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孝徳陵は竹之内街道に面しています。
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竹之内街道は昔の官道で国の役人しか歩けませんでした。
難波の宮から近つ飛鳥を通り遠つ飛鳥へ至る道路で道幅も広かったといわれています。
この写真の道は旧道といわれるもので 今は国道166号線になり 幹線道路です。
世界遺産熊野古道の小辺路、中辺路、大辺路、伊勢路などとと同様に 昔の歴史道はアスファルトの
道路でズタズタにされています。このようにきれいに維持されているのはほんの一部です。
この竹之内街道や熊野古道、町石道などを歩くと悲しくなります。昔の石畳道はごくごく一部で
ほとんどが アスファルトの国道や地方道、林道で破壊されています。中には高野町石道のように
ゴルフ場の中を歩かせるという 非常識な 世界遺産の参詣道もあります。
日本の役人のレベルの低さを現していますね。
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近つ明日香 その3へ続く
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64 「近つ明日香」訪問記 その3
太子町その3
大阪府南河内郡太子町「近つ明日香」を尋ねた記録と聖徳太子の皇子の出雲での軌跡も載せました。
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上之宮太子は用明大王と穴穂部間人皇后の皇子です。
用明大王は もともと推古女帝が 自らの皇子の竹田皇子を大王にする前の ワンポイントの
大王のはずでした。
推古女帝は 兄の子供の上之宮太子に我が娘(貝蛸皇女)を嫁に行かせるほど一時はかわいがっていたようです。
貝蛸皇女の息子が 額田部の財王と日置王です。お二人は出雲で活躍されました。
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その2の冒頭で書きましたが 587年見4月に物部守屋と中臣勝海は用明大王を殺害します。
用明大王の皇子の上之宮太子は当時16歳でしたが 復讐心にもえて 石川臣麻古とともに 崇仏派を結集して
7月に当時守屋が隠れていた 河内渋川(今の大阪府八尾市渋川付近)の守屋を襲い殺します。
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八尾市の渋川神社です。今は渋川町ではなく 植中町にあります。洪水で流されて16世紀に
移転したと書いてあります。物部氏の神社なので もちろん徐福(饒速日)を祀っています。
河内の国渋川に物部守屋の本拠地があったと伝わります。
そこへ上宮太子軍が攻め込んで守屋を滅ぼしました。
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上之宮太子は戦勝祈願に 信貴山朝護孫子寺を訪れて祈ったとされています。
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朝護孫子寺です。信貴山山中にあり とても大きな古刹です。
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太子がこのあたりを通りかかると 毘沙門天が現れて 太子に必勝法を授けたそうです。
それが寅年、虎の日、虎の時刻だったそうで 境内いたるところに虎がおいてあります。
神様が人殺しの方法を教えてくれたなんて、ほんまかいな!
朝護孫子寺訪問記はこちらです。
https://blog.goo.ne.jp/yochanh1947-koyotazune2015/e/03620c9fbac23be3bcb1a9e5d620a862
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上之宮太子は 16歳と未だ若かったので炊屋姫太后は初瀬部ノ皇子(炊屋姫の父ヒロニワ大王と
母堅塩姫の姉の石川小姉君との間の皇子)を大王に指名します。588年8月に初瀬部ノ皇子は大王に
即位します。(後の贈り名は崇峻)
その4年後の592年に竹田皇子が暗殺されます。犯人はなかなか分からなかったそうですが
竹田皇子が亡くなれば 自分の子を次の大王に狙っていた 崇峻大王の后の小手子妃らしいと分かり
朝廷の正式な儀式の席で 崇峻大王が惨殺されるという前代未聞の事件が起こった。
犯人は東漢(やまとのあや)真駒で 犯人は口封じの為に即刻 石川麻古大臣により処刑された。
太后の役職では自分の子供さえ守れないと考えた 炊屋姫太后は 未だ年若い尾治皇子を大君にするまでと
姫自身が大王になります。
593年12月に完成した豊浦大宮で即位式を行い 豊浦大王となります。(後の贈り名を推古)
そして上之宮太子を次の大王にすると約束して 大王補佐役とします。(摂政と記紀は表記)
しかし上之宮太子の人気が高まるにつれて 豊浦大王はわが子尾治の皇子の事が心配になり
上之宮太子の勢力を削ぐ為 太子の妻で娘の貝蛸皇女を豊浦大宮に引き上げさせ 貝蛸皇女の産んだ孫の
財王と日置王を遠い出雲の地に赴任させます。
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603年10月に小治田大宮が完成して尾治皇子が入居しますが上之宮太子に遠慮して 自分を東宮(皇太子)
と称します。
その年の11月に 完成した斑鳩大宮で上之宮太子は 沢山の重鎮達を集めて大王就任宣言をします。
それに驚いた 豊浦大王と尾治皇子は息長連系の重鎮達を集めて対策を練った。
そしてすべての官吏を12の階級に分けて 冠の色で階級を表して授けると発表した。
これは 大変効果があり 12月にすべての重鎮達が集まり、官位十二階の授与式がありました。
また官吏に対し 訓戒10条を定めた。これは奈良時代になり聖徳太子が定めた十七条憲法と
書き換えられた。
604年元旦に 尾治皇子は大王に就任し 尾治大王と称した。地方の国造も次々に小治田大宮に集めて
各国の領地の一部を大王家に寄進させて屯倉を造った。
斑鳩大宮の上之宮大王は孤立し 大王の名は有名無実になった。
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暇になった法王(大王になれなかった上之宮太子を後の僧侶や親族は法王と呼んだ)は仏典の勉強や国史
の作成に打ち込んだ。
当時中宮に住む太子の妃の一人伊那部橘婦人が たまたま斑鳩宮を尋ねてきたときに その国史を読むと
推古女帝の次の大王は上之宮大王と書いてあり 自分の父親の尾治大王の名前はどこにもなかったという。
日ごろから 上之宮太子の態度(大王の娘である自分を 妃と呼ばずに橘夫人と皆に呼ばせたり
太子の母の穴穂部間人前皇太后と同居させたり その他もろもろ)に不満を持ち続けていたのが
一度に爆発して 殺意を生んだという。
621年末に穴穂部間人前皇太后が突然倒れた。見舞いに訪れた太子に 母は「橘夫人に毒を盛られた」
と言ったという。それ以後太子は斑鳩宮では食事をやめて妃の膳部姫の飽波宮で過ごしたという。
それで橘婦人はますます太子を憎むようになったという。
太子の母は その年12月に亡くなった。翌年1月22日 母君のひと月の法要が中宮で行われ 参加した太子と
膳部姫が食事後に相次いで倒れて亡くなった。
当時出雲に赴任していて葬儀に参列した太子の息子の 額田部財王は 兄で喪主の山背王に毒殺事件を聞いて
出雲に帰ってきて 出雲旧王家の富家にそのことを伝えたという。
額田部財王も日置王も 都に帰る気を無くし 出雲の地で生涯を終えました。
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出雲の日置王
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イズモに赴任した日置王は 当初都では日奉王と称していました。当時出雲には 欽明大王の時代に
欽明大王の指示で 日置の伴部が派遣されて 欽明大王の父オホド大王の故郷出雲に 古墳を作り続けていました。
都では次第に 朝鮮系の息長家が勢いを強めていたので 日奉王は 朝鮮系からの迫害を恐れて
朝鮮系の名前の日置としたのです。
日置王は 額田部大王から母の貝蛸皇女を通じて引き継いだ 豊富な財力を生かし 大王の希望する
日御碕神社の建設に没頭します。官邸から馬に乗り冠をつけて川へ向い船で日御碕へ向う毎日だったそうです。
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日御碕神社の全景です。沢山の宮があります。
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これはその一つで 日沈みの宮です。夕日に向って建てられています。
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敏達大王が設置して 額田部大王から 日置王(日奉王)が引き継いだ日奉部は 太陽信仰でも
特に夕日を拝むといわれます。それで夕日に向って建てられたのでしょう。
日御碕神社の完成を聞いて 額田部大王は大そう喜ばれたそうです。
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この写真は出雲市の斎谷に多数築かれた 出雲西王家神門臣家の王家の墓 四隅突出墳丘墓の一つです。
日置王は ご自分で造営された 上塩冶築山古墳に葬られました。
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これがその日置王の古墳から発掘された品々です。
このほか黄金の太刀や多数のブレスレットとネックレスもあります。
当時勾玉やネックレスなどの装飾品は王族しか身に付けることを許されませんでした。
「出雲弥生の森博物館」見学記はこのブログの 2014年6月18日の記事にあります。
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これが復元された日置王の写真です。博物館のパンフに載せてあります。
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出雲の財王(たからおう)
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一方兄の 額田部財王は 当時 弟の日置王と共に出雲の地に都から赴任していました。
出雲国意宇(おう ー今の松江市阿太加夜神社付近 )郡 舎人郷の正倉役として赴任されていました。
そして同じく豊富な財力で弟の建てた日御碕神社の分社を建てられました。
(安来市月坂144番地 今もあるそうですがまだ行っていません)
そして当時としては珍しかった五重塔のある 大寺院の教昊寺(安来市野方町)を建てました。
しかし今は建物はなく 芯楚のあとがあるのみです。
そして財王も この地で生涯を終えられました。
そのお墓が 岡田山1号墳で 財王は生前から古墳を築いて寿陵としていました。
岡田山1号古墳から発掘された黄金の太刀には「額田部の臣」と言う文字が読めて発見当時大きな話題となりました。
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岡田山1号古墳です。財王のお墓です。
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発掘された太刀です。その古墳の発掘物は 松江市大庭の風土記の丘に展示されています。
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風土記の丘見学記は このブログの 2015年12月13日の記事に載せています。
※松江市教育委員会の説明では このあたりの古墳(岡田山古墳群、双子塚古墳群)は出雲大社宮司の祖先出雲国造家
のお墓だと書いていて、案内人の叔父さんもそういいました。
岡田山1号墳は 以前訪ねた「山代双子塚古墳」のすぐ近くに、しかもすぐ後に造られた。
富家の伝承では 富家の王陵の隣に額田部の臣の王が葬られたという。
それは当時 都から赴任していた 額田部財王であります。出雲王家の太彦殿が分家の越前蘇我本家、振姫に養子に行かれ
家業を発展させて 人望を集められ 都に迎えられたのが オホド大王(継体)で その息子ヒロニワ大王(欽明)
の娘が 額田部大王(推古)です。
額田部大王の兄、豊日大王(用明)の息子が 上之宮太子(聖徳太子)でその息子が 額田部の臣財王です。
財王は 当時 弟の日置王と共に出雲の地に都から赴任していました。 出雲国意宇郡舎人郷の正倉役として
赴任されていて この地で生涯を終えられました。
そのお墓が 岡田山1号墳で 財王は生前から古墳を築いて寿陵としていました。
古墳埋蔵品は 松江市大庭の風土記の丘に展示されています。
風土記の丘見学記は このブログの 2015年12月13日の記事に載せています。
※松江市教育委員会の説明では このあたりの古墳(岡田山古墳群、双子塚古墳群)は出雲大社宮司の祖先出雲国造家
のお墓だと書いていて、案内人の叔父さんもそういいました。
馬鹿じゃないの。ちっとは 自分たちの住む出雲の古代史を勉強しないと。
穂日の子孫は 九州物部王家の第二次東征時に東征軍の別動隊(朝鮮人ヒボコの子孫田道間守などの軍)
を 出雲軍の警備の手薄な場所を 案内して出雲王家の滅亡に活躍し、その功績で出雲国造家に
してもらいました。
イクメ王が大和入りしてついに大和の大王となったあと、攻め滅ぼした出雲の進駐軍司令官兼出雲国造として
物部の十千根が派遣されて 旧東王家の王宮に着任します。今の松江市神魂(かもす)神社です。
自分が出雲国造になれるとばかり期待していた 矛卑の子孫の果安はイクメ大王に自分の果たした実績を連綿と
訴えて 自分こそ出雲王国を倒した第一人者だと懸命に訴えて やっと出雲国造にしてもらったということです。
(※そのあたりは 「古事記の編集室、親魏和王の都、出雲と蘇我王国などを参照してください。)
松江市教育委員会は馬鹿ですねえ。徐福の忠実な部下の矛卑(ほひ)の子孫が 自分たちの祖先が殺した
出雲王家の富家(向家)のお墓群の中に 自分達のお墓を作るわけがありませんよねえ。
その案内人の叔父さんには 斎木雲州先生の本を読んで もっと勉強しなさいといっておきました。きょとんとしていました。
ちなみに矛卑の子孫が今の出雲大社の宮司です。
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太子町 その3 は続きます。
次は 使用特退氏の墓所のある叡福寺です。
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叡福寺門前の駐車場です。
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大きな朱塗りの山門を潜ります。
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広い境内です。
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建物がたくさんありますが、これが本堂なのでしょうか。
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寺の縁起です。これを読むと この墓所には 上之宮法王の生母 穴穂部間人皇后、上之宮法王、
そして法王の后の膳部大郎女の御三方のお骨が埋葬されているそうです。
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広い境内を歩いて 太子陵へ進みます。
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太子陵の入口にも 山門があり
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左右それぞれに
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仁王様がいらっしゃいます。
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門を潜ると墓所です。
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ここは境内ではなくて 宮内庁の管理のお墓だそうです。
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大王は陵と書かれていますが 太子は陵と書かれていなくて 「墓所」と読めます。
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これが納骨堂なのでしょうか。
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望遠で覗くと三人の仏様が掘り込んであります。御三方の墓所だからなのでしょうか。
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太子陵から境内を見下ろしたところです。
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金剛葛城の峰々も すぐそこに見えます。
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毎月11日が 太子の命日で縁日の法要があるそうです。
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造られた聖徳太子像
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様々な陰湿な謀略で 下級役人から上へ成り上がった藤原鎌足の息子が不比等です。
藤原氏への反感から壬申の乱では破れて 天武期には不比等は 渡来系の田辺家に隠れていました。
そのときに「孫子」を読み権謀術算を学びます。
持統期に次第に頭角を現し 刑部省の判事になり 政敵を次々と陥れて抹殺します。
そして奈良時代には 右大臣となり 記紀の編纂を始めます。
不比等は太安万侶と柿本人麻呂を監禁し秘密裏に記紀を書かせます。
(斎木雲州著 万葉歌の天才、古事記の編集室 参照)
その中で出雲王朝始祖の菅之八井耳(八井耳神)をまねて 上之宮太子を 豊聡耳皇子(とよとみみ)と名付けて
一度に沢山の人の話を聞き分けたとか 唐時既に伝えられていたキリストのまねをして 馬屋の戸口で生まれたとして
厩戸皇子(うまやどのみこ)と名付けた。また尾治大王の官吏10条の教訓を 17条憲法として太子の業績とみせかけた。
また不比等は 大友の皇子の曾孫 近江淡海を大学頭兼文章博士に採用し 歴代の大王の名を漢字二文字で表記させた。
ですから このとき以前の大王の名は すべて漢字二文字に書き換えられたのです。
不比等は 大王家つまり天皇家を神格化して皇国史観を創り上げて 自分が徹底的にそれを利用して
私腹を肥やすことの仕組みを創り上げて 以後千年以上に渡り 皇室を利用し続けて 藤原家は二条家、一条家、近衛家、
鷹司家 などに別れたものの 一貫して皇室を食い物にして連綿と続くのです。
つまり日本の歴史をゆがめて 己の都合の良いように 書換えたのが 不比等です。
今も沢山の人が記紀の呪縛に取り付かれています。私の山仲間のFさんの奥様ももその一人で
私のこのブログに敵意を抱き 我が家の裏山の岩湧山で 会うたびに いつも攻撃的なコメントを寄せられます。
記紀の呪縛に完全に飲み込まれていらっしゃいますので 他人の異なる意見を聞く耳を完全に塞いでおられます。
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上之宮太子を祀る 斑鳩寺が放火されて消失し 多くの僧侶達が各地に散りました。今まで斑鳩寺が日本仏教の
始まりだと 自負していた僧侶達は 上之宮太子を偶像化して名前を広めたいと考えます。
そして太子ゆかりの四天王寺などでも 太子の像を作り拝み始めます。そして太子の聡明さ、天才振りを示す説話
が次々に作られて広められます。
太子の死後129年経ち 751年に懐風藻のなかで ついに「聖徳太子」と言う言葉が出て 仏教開祖の菩薩とされました。
この聖徳太子は 上之宮太子、山背大兄、太子の父の用明大王の三社を合体した菩薩といえます。
廃仏派の物部守屋に焼き殺されて殉教した用明大王は仏教を公認した最初の大王であり、山背大兄は斑鳩寺や
中宮寺を建て仏教に尽くしました。つまりこの三者の実績をまとめて聖徳太子としたのです。
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太安万侶について
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多家は日本有数の由緒ある家系です。
初代ヤマト大王「天の村雲」は磯城家のタタラ五十鈴姫(事代主と玉依り姫の姫)と結婚し、その皇子
「沼川耳(ぬなかわみみ)」が二代目大王となります。沼川耳はタタラ五十鈴姫の妹「五十鈴依り姫」と結婚し
玉手看(たまてみ)と八井耳の皇子が生まれます。
王位を継いだのは 弟の玉手看(たまてみ)で 八井耳は「多臣家」の始祖となり、その家系が連綿と続き
今も奈良県田原本の多神社の社家をされています。もともと臣は出雲王族を現す家系です。
そして記紀製作者の太安万侶は 多家の子孫で 多神社に祀られています。
多神社訪問記は 当ブログの2015年12月26日の記事に載せています。
太安万侶は 記紀を書き上げたあと、記紀の秘密を守るため 人麻呂と共に不比等により幽閉されます。
太安万侶は 幸運(?)にもご先祖の地 出雲王家東王家の向家の領地に幽閉されます。
太安万侶は 幽閉されながらも 秘密裏に向井家と連絡を取り「自分は出雲王家の血を引く 多臣家の末裔で
山部赤人の名前で 幽閉されながら記紀を書かされた」と伝えたと言われます。
そして「古代出雲王十七代の王の名前を古事記に書き入れた」と伝え、それに対して向家は出雲王家を代表して
お礼を述べたと伝わっているそうです。
太安万侶が幽閉されて 余生を送った場所は 島根県松江市の「意宇の森(おうのもり)」で阿太加夜神社
(あだかやじんじゃ)が建てられています。
阿太加夜神社訪問記は 2014年4月10日の記事に載せています。
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この項は 斎木雲州著 飛鳥文化と宗教騒乱 大元出版 に基づいて書きました。
またその他の歴史は 御伽噺とモデル、万葉歌の天才、幸の神と竜、出雲と蘇我王国、古事記の編集室、
親魏和王の都、出雲と大和のあけぼの 以上いずれも大元出版に基づきました。また神社などの訪問記は
すべて私が実際に 尋ねた記録です。
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「古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて」トップページはこちらです。
http://yochanh.sakura.ne.jp/kodaiizumo/index.html
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63-2 男大迹大王(おほどおおきみ)の足跡を訪ねる越前旅 その1
2018年4月5日
越前三国国造家の蘇我総本家へ婿入りされた出雲富家、彦太の君と
その伴侶の振比賣の足跡を尋ねました。のちの男大迹大王(おほどおおきみ
ーのちの贈り名を継体)です。
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西暦248年に始まる 九州物部王国の第二次東征により、わが国最初の王朝である出雲王朝は倒されました。
しかしその後も 出雲国教の幸の神は各地で信仰され、特に東出雲王家の祖神のこもる 聖なる山 熊野山
(松江市天宮山)を祀る集会は 毎年行われ 全国に散った出雲王家の兵士達の子孫は 「散家」と呼ばれて
熊野山祭りの集会に参加しました。
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しかし倒されたとはいえ 出雲王家はまだ相当の財力と兵力を持っていたことは事実です。
実際に 九州物部王家のイクメ王は大和に進攻して磯城王朝を大和からおいだしたとはいえ、部下の朝鮮人卑矛(ひぼこ)
の子孫の但馬守が葛城地方で王のように振舞うのを制御できずにいました。
そこでイクメ王は旧出雲王家の富家に 但馬守を撃つように頼み 富家の大田彦は 出雲兵を率いて葛城地方から
但馬守を見事追い払い淡路島へ逃走させました。これにより富家の大田彦と 出雲王家の大和分家の富美家
は 大和に領土を回復し、大田彦は物部の重臣の称号「宿禰」を与えられました。
ここにきて イクメ王は名実共に大和の「大王」(この時点ではまだ天皇なる言葉はありません)になるのです。
この事件は記紀では「野見宿禰」と「当麻蹴速」の相撲話に書き換えられました。この事件が大相撲の
起源だそうで、まったくのお笑いです。しかし考えてみると この戦争をそのまま歴史書として書くと
九州から来た徐福の子孫の物部王家が 大和に王朝を作っていた 出雲王家と徐福の子孫の連合王国の磯城王朝を
武力で制圧して 則ったという事実がばれて 持統や不比等がそんな事を許すわけが有りませんからネエ。
ちなみに 野見宿禰の「のみ」とは富家の「とび」のことで 「たいま」とは但馬のことです。また今の當麻寺
のある當麻は但馬守が地盤とした地域で 但馬(たじま)がなまって「たいま」となったものです。
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一方 大和に進攻した物部王家の「イニエ王」は自分の部下だった武内宿禰が裏切り 磯城王家の彦道主大王
と連合した軍勢を破ります。彦道主大王は娘の燈バス姫をイクメ王に差し出して 武内宿禰とともに因幡の国へ
流されて 因幡国造家として余生を過ごします。
しかしイ二エ大王(後の贈り名は垂仁)は武内宿禰が許せなくて、刺客を放ちます。それを知ったヒバス姫皇后は
父親彦道主に知らせます。当時因幡の国に住んでいた武内宿禰は それを聞きとりもなおさず 農民の姿をして
西へ逃れ 出雲の富家に助けを求めます。
富家では 出雲王家の皇女大屋姫の子孫である武内宿禰を匿い意宇の森に住まわせます。
そして富家の姫を与えて結婚させ、出雲王家の称号「臣(おみ)」を与え「武内臣太田根」として
余生を過ごさせました。このことが将来の日本の歴史に大きな影響を与えます。
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武内臣大田根(たけしうちのおみ おおたね)の子孫からは日本史を動かす沢山の大王
(おおきみーまだこのころは天皇の称号はありません)が誕生しています。
武内臣大田根の曾孫が襲津彦大王で その後の平群王朝(支那の歴史書に言う和の五王)や蘇我の臣石川などが子孫です。
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ということで 話ははじめに戻りますが、蘇我総本家とイズモの富家は親戚関係なのです。
その蘇我総本家では振り比売の時代には 子供は振り比売一人になったといいます。そこで富家から次男の
彦太(ひこふと)を婿養子にもらう事になり、その年の熊野山の大祭に越前の蘇我総本家から振比売が訪れて
参加しました。そして大祭の後 彦太は振り比売を送って越前へ行き そのまま婿入りしたのです。
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富家に伝わる伝承によれば新婚の二人はまず 振り比売の祖先である「武内の臣大田根」を祀る
「武内神社へ参拝しました。今の松江市竹矢町です。
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そこから船に乗り阿太加夜神社へ向います。今の松江市東出雲町出雲郷(あだかえ と読みます)にあります。
其処は武内臣大田根が富家に匿われて 住んだ場所で意宇の森(おうのもり)と呼ばれる場所で
そこで命を全うしました。その屋敷跡に神社が建てられました。
※武内神社、阿太加夜神社の訪問記は 2014年4月10日の記事に載せています。
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そこからしばらく船を東へ進め、因幡の国で船を下ります。宇部神社に参拝する為です。
宇部神社は 武内宿禰が 因幡国造として大和から移り住んだ彦道主王(もう大王ではありません)に付き従い
移り住んだ場所で、イクメ大王が刺客をはなったという知らせで あわてて姿を消した屋敷跡に建てられました。
この神社の拝殿の前は 京都御所と同じく「右近の橘、左近の桜」が植えられています。
彼の子孫から沢山の大王が出たことを暗示しているのでしょう。
※宇部神社訪問記は 2017年10月12日の記事です。
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彦太と振姫は越前の福井で祝言をあげ 「オホドの君」と呼ばれて 活動を開始した。
水害の多かった九頭竜川の河口を切り広げて、三国港を整備した。そして日本海交易を盛んにし莫大な財をなした。
当時若狭、加賀、越の国には 出雲王家の親戚の磯城王家の大彦の子孫たちが国造家として住んでいて
「道の君」家と呼ばれていた。発展を重ねた蘇我総本家のオホドの君は それらの盟主となり
それらの国々はやがて蘇我王国と呼ばれるようになりました。
次にオホドの君は敦賀の港から荷馬車で山越えして 琵琶湖と淀川を舟で運び瀬戸内海と日本海を継ぐ航路を作った。
そして難波から大和川を通り都へは直接往来で来たので 都にもオホドの君の名声は聞こえた。
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今の三川合流地点の様子です。京都府八幡市付近で、右手が大阪府三島郡島本町、京都府大山崎町、
奥が枚方市と高槻市、左が京都府城陽市、久御山町、宇治市と入り組んでいます。私の家は右手前です。
左の川は木津川で右が宇治川です。もっと右に桂川が流れていて この先で三つの川が合流して淀川と
なります。
蘇我オホドの君は淀川の中流域、乙訓今の三川合流地点(淀川、宇治川、木津川)に交易の拠点と広大な屋敷を作った。
その地の西は三島であり、かつて第八代出雲王家副王、言代主の八重波津身に嫁がれた玉櫛姫(活玉依り姫)
の実家があり 出雲王家領の一部もあった。そこには沢山の出雲族が移住しており、彼らの子孫も多数
乙訓屋敷に集り男大迹の君の為に働き始めた。
また関東の国造家も ほとんどが出雲王家の子孫たちなので 彼らも乙訓の地に集り オホドの君の為に
働くようになり ますますオホドの君の名声はたかまった。
当時のオオサザキ(大雀)王朝では親族の内紛が絶えず、王家の力は衰えるばかりであり、折りしも
オケ大王(仁賢)、ワカサザキ大王(武烈)が相次いで無くなり跡継ぎが絶えたという。
そこでオオサザキ王朝の重鎮二人が 乙訓の屋敷にオホドの君を訪ねて 大王就任を頼み込んだという。
重鎮二人は 大伴金村と巨勢の臣男人であり、巨勢の臣は襲津彦大王の子孫である。(上図参照)
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重鎮二人はオホドの君が大王就任の条件として 先々代大王のオケ大王(贈り名を仁賢)の皇女である
手白香姫(たしらかひめ)を后にするという条件を持ち出した。オホドの君はこれを飲んで大君となり
オホド大王が誕生した。しかしこれがのちのち複雑な問題を引き起こします。
振姫との間には カナヒ、オシタテという二人の息子が居て 記紀ではこの二人を何故か大王扱いにして
それぞれ送り名を「安閑」、「宣下」としている。
しかし手白香姫との間には ヒロニワ皇子が誕生し のちにヒロニワ大王(欽明)となり この大王からの
系統が今の皇室に続く血筋です。
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※このブログの歴史内容は 斎木雲州著 「古事記の編集室」、「出雲と蘇我王国」、「出雲とやまとのあけぼの」
「万葉歌の天才」、「御伽噺とそのモデル」、「飛鳥文化と宗教争乱」
勝友彦著「親魏和王の都」、「参院の名所旧跡」 谷戸貞彦著「幸の神と竜」 いずれも大元出版です。
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男大迹大王の足跡を訪ねる越前桜旅その2へ続く
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男大迹大王の足跡を尋ねる越前桜旅 その2
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足羽神社と足羽山公園 福井市足羽
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足羽神社の鳥居からは 名物の「足羽神社の枝垂桜」が見えます。
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拝殿は大きくて立派です。ちょうど結婚式の記念撮影が行われていました。
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足羽神社の由緒書きです。まあでっち上げ、作り話小説の日本書紀をそのまま鵜呑みにして
かかれていますので 神話風になっています。
記紀の作成を命じた持統女帝や不比等たちが 一番嫌がったことが「自分達の祖先の秦国人で
渡来人の徐福の子孫達が 倒した出雲王家の末裔の若様を 大和の大王に迎えた」と言うことでしょう。
そのため オホド大君は ホムタ大王の6世子孫だとしています。しかしこれは明らかに間違いです。
第一ホムタ大王とオホド大王に血縁関係はないし、それに作り話の記紀に拠ればホムタ大王から11代目がオホド大王です。
実際はホムタ大王の後はオオサザキ(仁徳)、イザホワケに始まる和の五王
(ミツハワケ、オアサヅマ、アナホ、ワカタケ)、オケ(仁賢)それにワカサザキ(武烈)その次がオホドで9代目です。
そして一番驚くのが オホド君は 振姫の里の高向(たかむく)で生まれたというのです。
後ほど 高向の郷へ行きます。
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神社を出て 少し岡を登ると岡の最上部にオホド大王の石造があります。
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満開の桜を眺めるオホド大王。視線の先は福井市内の市街地で 背中には
真っ白に輝く雪の白山が 桜の先に見えました。
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高向神社 福井県坂井市丸岡町
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高向神社はマイナーなのか近所の人に聞いてもご存知ありませんでした。カーナビが教えてくれました。
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鳥居と石碑は新しくて立派なのですが、社がかわいそうです。
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小さな本殿がポツンと立っていました。
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記紀では 大王扱いの「カナヒ(安閑)、オシタテ(宣化)」の二人の母を祀る神社としては
かわいそう過ぎます。二人の大王の母上の姫を祀る神社ですぞ。
なんかこのあたりの村の鎮守様と言う感じです。
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そして説明看板を見てまたもびっくり、振姫がオホド君を生んだと書いてあります。
まあ日本書紀に拠ると という注意書きがありますが。
振姫を祀るのが 高向神社だと本で調べて来たのに これでは 振姫がかわいそうです。
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九頭竜川を河口の三国から少し遡ると 松岡と言う場所があります。そこが蘇我総本家の
屋敷があった場所です。その屋敷の川向に 古墳群がありますが その古墳が蘇我本家の
古墳群で その中の六呂瀬山1号墳が振姫の墓だといわれています。非常に大きい墓です。
まあ正式な皇后ではないけど、大王の奥様なのですから 古墳が大きいのはあたりまえです。
当時和国一の財力を誇った蘇我総本家の姫でもありますし。
それにしても この神社はかわいそう過ぎました。
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桜の名所花筐(かきょう)公園は 岡太神社の境内にあります。この神社の鳥居の前に立ったとき
ピンと来ました。岡太とは彦太のことではないかと。つまりこの神社は彦太の君に付いてきたイズモ族や
蘇我総本家の古墳作りを手伝いに来たイズモ族(出雲富家と蘇我では お互いの古墳作りに
技術者を お互いに派遣し合って造りました)が建てた神社と思いました。
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この神社の神事「蓬莱祀ーおらいし」の説明文です。やはりオホド大王つまり
彦太の君を祀っていました。
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境内の案内図を見るとイズモの国の縮図なのが分かります。あちこちに出雲の地名があります。
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神社の拝殿も立派です。
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岡太神社の本殿です。残念ながら大社造りではありませんでした。
そして立派な造りの本殿です。
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境内にある出雲社です。
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そしてこちらが 金刀比羅神社です。
これはもちろん 徐福らに幽閉殺害された出雲王家の第八代主王八千矛王(記紀では大国主と
書き換えられました)を祀る神社で、讃岐の金刀比羅宮にはその境内に美保津姫を祀る美保津姫神社もあります。
大国主とほぼ同時に幽閉殺害された第八代副王の事代主つまり八重波津身を祀る
ため 富家が建てた美保神社(松江市美保関町にあり全国の恵比寿神社の総本社)で、
父の八重波津身を祀る神社の巫女として過ごした事代主の皇女の美保須須美姫
を祀っています。
つまり金刀比羅神社はイズモ族の神社なのです。
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松江市の美保神社の神門から拝殿をみたところです。八重波津身は 記紀で事代主と書かれ
そのうちに 恵比寿さんとも呼ばれるようになります。
そこでこの美保神社は全国の恵比寿神社の総本社となります。
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またこの岡太神社境内には琴弾山もあります。もちろん本家の琴弾山は出雲にあります。
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この写真は島根県奥出雲町の琴弾山(1180m)の山頂に建てられた琴弾神社です。
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と言うことで岡太神社は出雲族の建てた 彦太の君を祀る神社と言うのが良く分かりました。
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ちなみに 岡太神社を中心としたこのあたりの山に 桜を植えて花筐公園として整備されました。
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63-1 九州宗像家の祭祀の場 沖ノ島がNHKテレビ放映され
そのとんでもないデタラメ内容にあきれ果てました。
2017年11月1日
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沖ノ島は 一般人は行きたくても上陸できませんので テレビでみるしかありません。
そこで先日NHKの番組で紹介しているのを見ていたら、とんでもない放送内容なので
びっくり仰天しました。
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沖ノ島の映像です。
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1.宗像家は海の民である。
2.第二次学術調査で三角縁神獣鏡が発掘された。その三角縁神獣鏡は大和政権がシナから貰ったものなので
大和政権がこの島で 国家的な祭祀を行った
3また学術調査で 同時に鉄の板が発見された。宗像氏は鉄を求めて 朝鮮半島へ出かけた海の民である。
以上三つが番組で堂々と言っていた とんでもないデタラメの代表です。
他にも出鱈目が沢山ありましたがここでは省略します。
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1.宗像氏について
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平安時代(815年)に出来た「新撰姓氏録」には「宗形の君は大国主六世孫吾田片隅の子孫である」と書かれています。
つまり古代出雲王家第六代主王(役職名大名持ち)臣津野(出雲では国引き王と呼ばれる)の孫の吾田片隅(あたかたす)
が九州へ行き 起こしたのが宗像家です。
つまり宗像氏は当時和国最初の王朝出雲王家の由緒正しい王族なのである。決して海の民などではありません。
紀元前3世紀末に石見の五十猛海岸に大勢の秦国人海童を連れて上陸し、その後一旦秦に帰国して始皇帝から
更なる資金と海童を貰い 佐賀の浮杯の地に二度目の上陸した秦国人の道教師の徐福。
彼が連れてきた大勢の秦国人たちは 広範囲に広がり 漁民や船乗りとなりました。
一般的に 海の民とは 徐福が連れてきた秦国人海童の末裔達であり、宗像家は出雲王家の血を引く王族なのです。
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宗像家の始まりと 出雲王家の系図です。「新撰姓氏録」に書かれたのとは少し違い 正確には
大国主六世の孫ではなく、第六代大名持ち(主王のことで 記紀でいう大国主とは第八代大名持ちの八千矛のことです。)
臣津野の皇子(次男)なのです。
そして宗像家の三姉妹とその皇子、皇女たちが 古代史を大きく動かすのです。
※表は斎木雲集著の「古事記の編集室」、「イズモとヤマトの曙」他の本より私が作成しました。
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2.三角縁神獣鏡
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これが出土した三角縁神獣鏡だそうです。
NHKの番組では 歴史学者のじーちゃんが「三角縁神獣鏡は 和国が支那から貰ったものなので この島で
大和政権が海上交通の安全を願い 祭祀を行った」と とんでもない事を言い出した。
あたかも 三角縁神獣鏡は 大和政権が直接支那から貰い、大和政権しか所持していなかったかのように聞こえました。
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確かに和国は魏から神獣鏡を貰っています。
当時和国には いくつかの国が乱立していて それぞれが魏に朝献していました。当時の和の大国は 出雲王国、
大和の磯城王朝、そして日向の都萬国つまり物部宇佐連合王国です。
魏書に登場する一番目の姫皇女(ヒミコと書かれた)はヤマトのモモソ姫で「その女王が立つと和国に平和が訪れた」
と書かれました。二番目の姫皇女は都萬国のイ二エ王亡き後女王となった「宇佐豊玉姫」です。
西暦240年に魏への朝献使節団が帰国するときに 魏領帯方郡から役人テイシュンが伊都に付いてきました。
ヤマト国の女王と言うヒミコに親魏和王の金印と詔書、錦帯、下賜品目録を直接手渡す為です。
自称ヤマト国の女王だという豊玉姫は大和から来たふりをして都萬国から出かけていき、テイシュンから直接肩に
紫錦帯をかけてもらいました。盛装したヒミコは左右に 使節団の田道間守(辰韓王子ヒボコの子孫)や物部十千根
に青錦帯を肩にかけさせて 大いに威厳があったと書かれました。二人とも魏の官位「中朗将」を与えられて
青錦帯を持っていたからです。この時点ではイクメ王はまだこの官位を持っていませんでした。後に使節団として
和の大君が直接魏に出かけて 中朗将の官位を貰いました。
魏書では イクメ王をイサチ(幼名)と書いています。
記紀ではイクメ王を活目入彦五十狭茅命(いくめいりひこいさちのみこと)と書いていますが和国の大王が直接魏へ朝献
に行ったとは書いていません。
※和国が魏の属国であった時代を記紀は一切触れていません。支那の歴史書に残っているのに。さすがに持統も不比等も
和国が魏の属国になっていたのを恥だと思ったのでしょう。
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そして下賜品として神獣鏡が100枚下賜されました。しかし三角縁ではありません。
支那大陸で出土した銅鏡はすべて平縁の神獣鏡で、三角縁ではありません。
もともと支那では 道教の神仙思想に基づく神獣鏡が造られたのは平縁です。
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磯城王朝11代彦道主大王の頃 支那では 魏と呉が対立していた。魏の遼東方面には 公孫渕が太守として
大きな力を持っていた。公孫渕は独立しようと考えて呉の孫権に使者を送った。喜んだ孫権は公孫渕を独立させて
燕国王とした。そして235年(青竜3年)に大量の財宝を贈呈し、その中に沢山の銅鏡材料や工人がいた。
しかしそれを知った魏は公孫渕にたいして 強く復帰を求め いろいろ好条件を出したらしい。
寝返った公孫渕は 魏の使者の首をはねて魏に送ったという。
慌てふためいた呉の使節団の船は 逃げ出したもののあちこちで難破したという。逃げ遅れた工人達は和国に亡命して
最初は当時の大国都萬国に来たが、ヒミコ女王が魏と国交を開くと聞き あわてて今度はヤマトの磯城王朝へ行き
鏡を造った。それがヒミコが魏から銅鏡を貰う前のことです。
磯城王朝はそれらの銅鏡を支配下の豪族達に配りました。大阪府高槻市、京都府竹野郡、山梨県鳥居原などから出土した、
青竜3年や赤鳥元年の年号の入った銅鏡がそれらの和国製のものといわれます。
工人達が住んで鏡を造った場所に 「鏡作り部神社」が建てられました。
奈良県田原本市です。
※鏡作り部神社の訪問記は このブログ 45番2015年12月26日に載せています。
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一方何度も魏への使節団として行った、武内宿禰は自分より素性や育ちの悪い 田道間守や物部十千根が「中朗将」の
官位と青錦帯を持っているのに 自分には何ももらえ無いので不満に思い 都萬国を離れて磯城王朝に付く
ことを決めます。
武内宿禰の才能を恐れた女王ヒミコこと豊玉姫が 自分の息子(豊来入彦)やイクメ王より偉くならないように思い、
官位を授けるように魏に働きかけなかったからです。
以前から親しかった ヤマト磯城王朝の日子道主大君に秘密に頼まれていた武内宿禰は 魏の帰りに 大量の銅鏡材料と工人を
帯方郡で 仕入れて ヤマトへ送ります。
青銅をえた大和の大王は西軍(物部宇佐連合王国の都萬国軍)に対向する為 魏鏡より大きい鏡を大量に作り、
支配下の豪族達に配ります。大きい銅鏡は割れやすい為 三角縁にして強度を増したと言われています。
三角縁神獣鏡は300面以上作られました。また磯城王朝を支えた登美家の大賀茂津身も100面以上作りました。
それらは近畿や東海から400枚以上出土しています。
特に一つの古墳から大量の三角縁神獣鏡が出土した ヤマトの黒塚古墳、ヤマシロの椿井大塚山古墳はそれぞれ
彦道主大王の父親の日子坐大王と 登美家の大賀茂津身の墓だと考えられています。
また武内宿禰も100面以上作らせて、自分が魏へ施設団としていった記念として景初三年の年号を入れました。
武内宿禰が葬られた 雲南市神原神社古墳から出土した 景初三年の年号入り三角縁神獣鏡がそれです。
※神原神社古墳を尋ねた記事は このブログ「42番、2015年12月13日」の神原神社の記事に乗せています。
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中国社会科学院考古学研究所所長の王仲殊が1984年にわが国に招かれたシンポジウムで「三角縁神獣鏡は
和国製である。中国ではこの鏡は一面も出土しておらず この鏡の笠松幡模様は中国のものには無い」と断言して以来
この鏡がどこ製かという議論は 決着したはずなのに未だに支那製だとほざいている学者がいるなんて 驚きです。
ちなみに笠松幡とは ヤマト磯城王朝が西軍(九州物部軍)に対抗して造った軍旗の模様です。
つまり沖ノ島の三角縁神獣鏡は 磯城王朝側の登美家から 同じ出雲王家の親戚筋の宗像家が手に入れたものと
思われます。宗像家が都萬国のヒミコから貰った銅鏡でもなく、まして大和王朝の磯城家がこの島で祭祀を
行ったものでもありません。
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3.鉄器について
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和国の鉄の歴史は古い。
偽りだらけの日本書紀の中で 「事代主の比売の名を タタライスズ姫という」とかかれています。
たまには本当のことを書くこともあるようです。この場合の事代主とは 徐福たちに殺害されたイズモ王朝
第八代少彦(副王)の八重波津身のことです。
紀元前3世紀末に石見の五十猛海岸に上陸した徐福とその忠実な部下の穂日(今の出雲大社宮司の祖先)や秦国
から連れてきた大勢の海童達により 拉致幽閉されて殺害された事代主(役職名は少彦、本名は八重波津身)
と三島(今の大阪府高槻市、三島郡島本町)から輿入れされた活玉依り姫との間の姫君の名前をタタラ五十鈴比売
と言います。
つまり当時既に出雲王国内で製鉄が タタラにより行われていたことをうかがわせます。ちなみに五十鈴(イスズ)
とは古代イズモでは 砂鉄を意味したといわれています。
また福岡県曲り田遺跡から出土した鉄器は 国立歴史民族博物館チームが 2003年5月に発表した報告書では
AMS方式による年代測定で、従来の弥生時代の始まりより約500年遡り 鉄器は紀元前10世紀のものと
発表されました。
一方支那大陸の最古の鉄器は 「西周」の終わりごろの遺跡から発掘された鉄器で紀元前9世紀とされています。
つまり鉄器は支那から伝わったのではなく、出雲王家に伝わるように インドからクナト王が連れてきた技術者により
イズモの砂鉄で造られた公算が大きいのです。
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古代インドのドラビダ人が アーリア人の侵入により押し出され 南へ逃れた集団が今のタミール人であり、
クナト王を中心に北へ逃れてサハラ砂漠を越えてシベリアのブリアートから黒竜江(アムール)を降り和国に
やってきたのがイズモ族と出雲王家では伝えられています。ブリヤートの細石器刃が樺太や北海道に伝わったルートです。
そのためタミール語と日本語には共通するものが多いといわれています。(日本語とタミール語 大野晋著)
タタラとは古代ドラビダ語で激しく燃える火を意味するそうです。金属を示す「カネ」も金属を意味するドラビダ語であり、
古代イズモ王国の国教の幸の神三神のうちのサルタ彦のサルタとは「鼻が長い」と言う意味でつまりヒンドゥーの象神、
ガネーシャのことで 出雲北山鼻高山(はなたかせん)に祀られました。
北海道から日本海伝いに南下したイズモ族は島根半島周辺に大量の砂鉄を発見して そこに落着いたといわれます。
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タタラに拠る製鉄の遺跡です。(日立金属ホームページより)
イズモでは砂鉄を野踏鞴(のだたら)で精錬されました。アナの底に溜まったケラ(ヒ)からはウメガイと
呼ばれる両刃の小刀が作られたという。
野踏鞴の近くには 大鍛冶場が作られて踏鞴から出た鍛鉄を加熱脱炭、精錬され、その近くの小鍛冶場で更に脱炭
して鉄製品が造られました。
現在、中国山地の島根県奥出雲町で日刀保たたらが再建されていますが、それは現在の日本刀を作る原料としての
玉鋼を供給するためなのです。
つまり祭祀が沖ノ島で行われていた時期には 和国で鉄が造られていたということです。
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出土した鉄の板です。
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4.その他の出土品など
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出土した銅剣です。
イズモ族が祭祀に銅鐸を使用したように、九州物部家は銅剣をシンボルにしました。
渡来秦国人徐福の次男穂穂出見に始まる九州物部家は各地の豪族達にこの銅剣を配りました。
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出雲王家は親戚の宗像家を通じてこの銅剣を入手して それをヒントに「出雲式銅剣」を作り出したといわれています。
※写真は斎木雲州著「出雲と大和の曙」のカバー写真の「イズモ式銅剣」
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イズモ族の龍蛇神信仰
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沖ノ島から出土した金銅製竜の頭の飾りか置物です。
イズモ族は海の鮫(ワニと言った)を神として尊敬したが 同時に龍蛇神をも 信仰した。宗像家もイズモ王族
なので 当然龍蛇神信仰を持っていたと思われます。
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松江市揖夜神社の竜です。胴体は後の木にまきついています。
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松江市阿太加夜神社の竜です。これも胴体は後の木に巻きついています。
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巨岩信仰
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巨岩にササゲ物をしている宗像家の貴人の想像図だそうです。(NHKテレビより)
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巨岩に対する信仰もイズモ族の特徴です。このブログ「古代出雲王朝ゆかりの地を尋ねて」でも各地の巨岩が
御神体になっている神社へ出かけています。
島根県雲南市琴弾神社、和歌山県新宮市神倉神社、三重県熊野市花の窟 そのほかです。
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ということで
ということで
ということで
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古代イズモトップページはここから戻れます。
http://yochanh.sakura.ne.jp/kodaiizumo/index.html
※このブログは大元出版の本すべてを参考にしています。ブログの訪問記の記事は この沖ノ島の記事以外は
すべて私が直接尋ねて調べました。
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最もHKは以前から デタラメ放送が多く信用できません。きっと頭の悪い連中が
番組制作しているせいでしょう。
鶴瓶の何とかに乾杯という番組でも 馬鹿な女子アナが「ご存じのように金剛山は
大阪府最高峰で」と番組中 5回くらい叫んでいました。
金剛山という名前の山はなく、金剛山系葛城岳、大日岳、湧出岳、白雲岳の四座とも
奈良県御所市にあります。大阪府ではありません。
また朝のニュース番組でも「奈良県の葛城山の様子です」と言って映し出される場所は
大阪府千早赤阪村の草原です。山頂に大阪と奈良の県境があり、ススキ原の大部分は
大阪府だということを馬鹿な女子アナもディレクターも知らないのです。
また歌番組でも、なんとか野々花という馬鹿な女子アナが 流行歌手を「アーティスト」
なんて呼ぶのでいまや 他のテレビでも 歌手をアーティストと呼ぶようになっていますが
アーティストとは芸術家だということを 知らないのですね。
芸術ということをあまりにも軽々しくかんがえています、NHKは。
歌手でアーティストと呼べるのは 私個人的には「エラフイッツジェラルド」位だと思っていますが
人により違うでしょうが、少なくともポップス歌手や演歌歌手は芸術家ではないと思います。
最近ではHKの歴史番組は見ないようにしています。見たら腹が立つだけなので。
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2017年10月12日
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特に第七代主王(役職名は大名持ち)の臣津野(おみつぬ)の時代は
領土が大きく広がり、臣津野は「国引き王」と尊敬されました。

上の絵は「国来(くにこ)、国来(くにこ)」と人々を励まして 国土を引き寄せる臣津野王です。
(臣津野を祀る 出雲市長浜神社)
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当時は東は越の国(第八代副王 八重波津身に御輿入れされた沼川姫も越の国の方です。)から西は
宗像王国(臣津野王の皇子吾田片隅が移住して造りました)まで広範囲でした。当然伯耆、稲葉の国も
出雲王国でした。
当時の出雲王国は 各地を武力で制圧したのではなくて、国教「幸の神三神」の信仰を媒体にして各地の豪族を
束ねた宗教国家でした。
その稲葉の国の出雲王国の名残を尋ねます。
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その1 宇部神社 武内宿禰が住んだ場所が起源の神社
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記紀で武内宿禰と書かれた 武内臣太田根(たけしうちのおみ おおたね)はもともと物部武内彦だった。
西暦232年頃 九州物部王家のイ二エ王(記紀では崇神)が大和の磯城王家を倒すべく東征を開始して
とりあえず日向に 都萬王国を立て宇佐王家の宇佐豊玉姫(魏書ではヒミコとかかれた)と都萬宇佐連合王国を
打ち立てて 東征の準備に掛かり、各地から旧物部家の重鎮を呼び寄せ始めた。
紀の国にいた 物部彦布都押も息子の物部武内彦と共にかけつけた。才能溢れる武内彦はイ二エ王にかわいがられて
物部家の重鎮の称号「宿禰(すくね)」を貰う。このときから武内宿禰家を名乗る。
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しかし宇佐豊玉姫はイ二エ王の皇子イクメ(記紀では垂仁)やわが子豊彦(記紀では豊鍬入彦)より武内宿禰が
頭角を現すのを恐れた。 魏へ何回も献朝に行った武内宿禰、田道間守、イクメ皇子のうち 渡来朝鮮人の子孫但馬の
田道間守やイクメ王(魏書ではイサチと書かれた)は魏から中朗将という役職をもらっているのに ヒミコが親書に
何も書かなかったばかりに武内宿禰は 無官のままだった。
失望した武内宿禰は 東征戦争のさなかに イクメ軍を裏切り 磯城王朝側に付く。しかし磯城王朝軍はイクメ軍
に破れて 最後の磯城王家彦道主大王は娘のヒバス姫をイクメ王に差し出して 降伏し稲葉国造として 武内宿禰と共に
稲葉の国に住む。この時点でイクメ王は 名実共に大和の大王となり、石上神社で執政を行う。
武内宿禰はこの地に暮らしていたが ある日ヒバス皇后から「イクメ大王が武内宿禰に刺客を放った」と連絡を受けて
衣服を農民の姿に変えて 直ちに 旧出雲王家の向井家に助けを請う。向井家は武内宿禰を匿い 意宇の森に住まわせて
王家の娘を嫁がせて 出雲王家の称号 「臣」を与え 武内の臣太田根と名乗り意宇の森で生涯を終える。
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この旧出雲王家が武内宿禰の命を救った事が 後の和国の歴史に大きな影響を与えます。
息長帯姫(おきながたらしひめ記紀では神功皇后)と共に三韓征伐に大成功して 大君となった襲津彦王やその後の
ホムタ大王、(記紀では応神)、オオサザキ大王(記紀では仁徳)やそれに続く魏書にいう和の五王などの大王や
蘇我臣家、平群臣家などの豪族を生み出し 和国の歴史を動かすのです。
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武内宿禰の系列です。和国の中心となる錚々たる人物の祖先です。
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宇部神社参道入口です。一宮なので恐らくここら当たりに一の鳥居があったのではないでしょうか。
私の個人的な感想ですが。
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これが現在の一の鳥居です。昔は二の鳥居だったのかもしれません。
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今の二の鳥居です。この鳥居を潜ると長い石段へ続きます。
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長い石段を登ると
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なにやら大きな垂れ幕が掛かっていました。酉年にちなみ鳥戦ーちょうせんと読むのでしょう。
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広い境内です。
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拝殿の前には 御所に似せて右近の橘、左近の桜が植わっていました。武内宿禰から沢山の大王が輩出した事
を暗示しているのでしょう。ちなみに左近の桜は枯れたのか、今は三春の滝桜の娘桜が植わっていました。
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拝殿とそれに続く本殿です。
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残念ながら 本殿は大社造りではありませんでした。しかし千木は出雲式の縦削ぎです。
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拝殿のちょうちんの菊の紋も大王の祖先を暗示しているのでしょう。
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境内の池と赤い端の由緒は不明でした。
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拝殿から境内を見たところです。この右手に面白いものがあるので見に行きました。
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宇部神社の由緒書きです。作り話の記紀のとおりです。五代の大君に使えて齢360歳で あの世へ旅立ったとか、
応神の成長を見守ったとか、デタラメブリに笑ってしまいますね。360歳まで生きた人間が古今東西いるのでしょうか。
応神の父親は襲津彦大王です。記紀ももう少しまともな嘘を造ればいいのに。
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其処から少し丘を登ると双履石成る者がありました。武内宿禰がはいていた草履をここに脱いであの世へ旅立ったそうです。
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武内宿禰は イクメ大王が放った刺客のことを聞くと 急いで衣服と草履を脱ぎ捨てて 農民の姿に変装して
出雲の向家へ逃れました。その草履が石になったそうです。
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神社の脇の山道を進むと伊福吉部徳足姫の墓所があるというのでいってみました。
たまたま通りかかった地元の方に道を聞くと「ここから歩いていくとお墓だが、今は放置された梨畑の
有刺鉄線や倒木が道を塞ぎ 人間は通れないよ。猪の巣だけん」と言われました。
少し進みましたがあまりにも酷い状態で 進めませんでした。
伊福吉部家は宇部神社の社家で 出雲王家の親戚で、徳足姫は文武天皇に采女として仕え従7位の官位を貰っていたと
墓碑に書いてあるそうです。
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次は稲葉神社です。
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61 旧出雲王国領の稲葉(因幡)の国を歩く その2 稲葉神社
2017年10月12日
その2 稲葉神社 日向襲津彦が三韓征伐の折に戦勝を祈念してこの地に旗を立てたのが始まりとされる。
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三韓征伐について
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オキナガタラシ姫(息長帯姫)は 1世紀後半に朝鮮半島辰韓から渡来した辰韓の王子ヒボコの子孫です。
ヒボコは最初出雲王朝の直轄地に上陸しようとしたが、出雲の法律を守る事を拒否したため 出雲王に
上陸を拒否され、当時誰も住めなかった 丹波円山川上流の湿地帯に上陸し 苦労して開拓したという。
オキナガ姫はイクメ大王の孫 ワカタラシ大王の后になり、後の贈り名は神功皇后です。
そのとき辰韓が滅び新羅となりました。オキナガ姫皇后は新羅に対し辰韓の財産の分与を要求したが拒否されます。
夫君のワカタラシ大王に朝鮮出兵を持ちかけるが拒否されました。そのあとワカタラシ大王は戦死されます。
そこでオキナガ姫は当時の豊前の大豪族、豊前中津彦に相談されるが これも拒否されて かつ中津彦も戦死します。
記紀はイクメ大王に始まる物部王朝が三代で終わった事を隠すため中津彦を大王に格上げして「仲哀」としているが
豊前中津彦は大王ではなく、オキナガ姫皇后の部下で 単なる豊前の豪族の王です。
次にオキナガ姫皇后は日向ソツ彦に相談されてソツ彦は 朝鮮出兵を快諾されます。
ソツ彦大王は初代大和大王「天の村雲大王」の異母弟高倉下(たかくらじ)の子孫の武内宿祢のひ孫で
武内臣ソツ彦といい 日向の王となられていたので日向襲津彦とも呼ばれていました。
高倉下の母姫は出雲王家の大屋姫だからソツ彦大王も当然出雲王家の血を引くお方なので臣を名乗っておられたのです。
襲津彦王は華麗な人脈を生かして紀伊家、尾張家、丹波海部家など全国から水軍を組織して三韓征伐の総大将となり、
朝鮮半島に向われた。
海上を埋め尽くした夥しい軍船を見た新羅王は戦わずして降伏したという。その後百済も降伏させたという。
三韓征伐に大成功を収めた結果、和国には朝鮮から莫大な税が入ってくるようになりました。
そして襲津彦王は大和に凱旋し 大王となられました。
また物部王朝を長く存在したように見せるため、九州から一度も出ずに病死したイクメ大王の父君イニエ王を
大和の大王に格上げして「ミマ来入彦イニエ大王」とでっち上げて 任那からイニエ王がやってきた事にしています。
しかし 任那ができたのは ソツ彦大王とオキナガ姫の三韓征伐が成功したずっと後の話なのです。
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襲津彦大王の活躍舞台の変遷を曽祖父の武内宿禰からまとめました。
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記紀ではホムタ大王は息長姫と中津彦の子だとしていますが、ホムタ皇子が生まれたのは三韓征伐の後なので
当然 ホムタ大王の父親は襲津彦大王です。
しかし実際のホムタ皇子は7歳にして夭折されました。息長姫は困り果てられました。お世継ぎが居ないと
新羅が年貢の支払いをしなくなるのは目に見えているからです。
そこで親交のあった上毛野国造家の竹葉瀬ノ君が同じ7歳と知り 秘密裏に呼び寄せて息長家の皇子としました。
竹葉瀬ノ君は 宇佐豊玉姫が生んだ 豊彦(記紀では豊鍬入彦と書かれた)がイクメ大王に追われて東へ逃げた
子孫である。その話を聴いて 一番喜んだのが 宇佐八幡宮である。
もともと宇佐八幡宮は 豊玉姫(魏書でヒミコと書かれた一番最初の姫)を祀っていたが その竹葉瀬ノ君の話を聴いて
急遽ホムタ大王とおまけにホムタ大王の母親とされる 息長姫を祀り 現在も主祭神 はこのお三方です。
一般的には 宇佐八幡と何の関係も無い ホムタ大王、息長姫が主祭神 に成っているのは こんな意味があったのです。
そして でっち上げの歴史小説である 記紀は 物部王朝を長く存在したように見せるため、九州から一度も出ずに
病死したイニエ王(イクメ大王の父君)を大和の大王に格上げして「ミマ来入彦イニエ大王」とでっち上げて
任那からイニエ王がやってきた事にしています。
しかし 任那ができたのは ソツ彦大王とオキナガ姫の三韓征伐が成功したずっと後の話なのです。
また不比等や持統たちは、魏書に何度も登場している「ヒミコ」を無視し続けていますが、どうも
神功皇后をヒミコと思わせようとしていたのではないでしょうか。武内宿禰が偽書に何回も書かれていますが
彼を300年以上長生きさせて 息長姫の時代まで活躍させたのは その表れだと思います。
※偽書では武内宿禰を載斯烏越(さいしうえつ)と書いていますが戴斯烏越(たいしうえつ)の戴と載の写し間違いと思われます。
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また襲津彦大王の弟武内臣若子の娘岩野姫はオオサザキ大王(仁徳)の皇后となり、イザホワケ大王をお生みになった。
それで当分ソツ彦王家が続くのです。
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稲葉神社について
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三韓征伐の準備中、襲津彦王は親族の住む紀州、日向はもちろんの事、尾張や丹波但馬若狭で勢力を持つ
名門海部家の建振熊(たてふるくま)宿禰からも協力を取り付けて 多くの漁船軍船を集めました。
その途中 この地に立ち寄り稲葉山の麓にある金亀にある祖先の墓所にお参りしたあと この地に旗を立てて
戦勝を祈ったといわれます。それがこの稲葉神社のはじまりです。
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稲葉神社の表参道は分かりづらくて 近寄れませんでした。裏側には大きな道路が走っていて、隣には稲葉小学校が
あり、そこの駐車場に勝手に車を止めさせてもらいました。ごめんなさい。
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境内は比較的広く、良く整備されていました。
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拝殿です。近所の方が何人か御参りされていました。
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本殿です。残念ながら大社造りではありませんでした。しかし千木は出雲式の竪削ぎなので安心しました。
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本殿と拝殿の間に 大きな石がありました。
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説明書きを読むと なんと武内宿禰が 三韓征伐のときにこの地に旗を奉納して 戦勝を祈願したときに腰掛けた石だとあります。
まあでっち上げの記紀の内容に従っているので しょうがないですが それにしてもひどすぎます。
武内宿禰の曾孫の襲津彦の活躍が武内宿禰と混同して書かれているのは 理解出来ませんね。
おまけに武内宿禰は 玄孫(やしゃご)のホムタ大王にも仕えたと書いているので数百年も生きた事になるのです。
もう少しまともな嘘を並べれば良いのに 記紀の編集者は。
なにか 思惑があってそうしたのでしょうね。作者の太安万侶も出雲王家の血を引くお方ですから 何かしら暗示
したかったのでしょう。
明らかな嘘を書くことにより、この書物は信用できないよと 不比等らに内緒で知らせたかったのかもしれません。
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境内には変わったものがありました。古代出雲の 鳥居の原型です。二本の丸太を立てて その間に注連縄を渡すものです。
やがて幸の神三神信仰が盛んになると 三つ鳥居に変化します。
※ 三つ鳥居は 出雲市長浜神社や奈良県櫻井市檜原神社に現存します。
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次は白兎神社です。
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60 旧出雲王国領の稲葉(因幡)の国を歩く その3 白兎神社
2017年10月12日
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その3 白兎神社
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白兎神社は 九州物部軍の大和への東征時イクメ王本体が瀬戸内海を東進して吉備王国と激戦を繰り広げていたときに
別動隊は 日本海を北上東進して 出雲王国を激戦の末降伏させて、更に東進する途中、稲葉の国の伏野に
しばらく滞在した。その前進基地の跡が 宇佐社となり、更に白兎神社と名を変えた。
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まず 古代出雲王朝の王制に付いて
古代出雲王朝は東と西の二つの王家があった。西は「神門臣家」で東は「向家」でそれぞれ交互に 主王
(役職名は大名持 おおなもち)と副王(役職名は少彦 すくなひこ)を出していました。
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九州筑後平野に和国へ2度目の上陸をした秦国人徐福(記紀では素戔嗚)の子孫が打ち立てた「物部王家」は西暦232年に
イニエ王(記紀では崇神と表記)は第2次東征を決意し南下を始めました。
そして日向の地に「都万(つま)王国」を作り 宇佐の豊王国から豊玉姫を迎え「都万豊連合王国」を作った。
皇子のイクメは瀬戸内海を東進し 吉備で吉備王国の激しい抵抗を受けていました。
別動隊の曙立王(あけたつおうー大和の登美家の分家)と菟上王(うのかみおうー宇佐家)が日本海を東進して
西出雲王家を急襲した。第17代大名持ちの「山崎帯王(やまさきたらし)」は当時智井宮宮殿(出雲市神門町)に居たが
慌てふためいて背後の山に逃げ込んだ。そこに新宮を建て 抵抗したがやがて降伏しました。
その新宮で講和条約が結ばれ 物部軍が西出雲に駐留することとなった。新宮は後々まで(江戸時代頃まで)も
「和評り(わはかり)の宮」と呼ばれたが、現在は「久奈子神社」となっています。
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一方 都万豊連合王国の別動隊が日本海を進み 東出雲王家を急襲した。
西暦80年頃に渡来した朝鮮人(辰韓の王子)ヒボコの子孫 田道間守(たじまもり)が東出雲王家(第17代少彦 野見彦)
の宮殿の田和山神殿(松江市田和山町)を襲い破壊した。田道間守は直ちに日本海を東進続け 既に大和入りしていた
都万豊連合王国 イクメ王と合流する。
その後武諸隅(たけもろずみ)率いる物部軍が伯耆の国日野郡から大量に侵入し東出雲王家も降伏する。
野見彦は宮殿を物部軍に明け渡し、向家は八雲に移る。進駐軍の大将が 物部の十千根です。
物部軍は宮殿の建物に駐留し それが今の松江市「神魂(カモス)神社」であり、向家の住まいが今の松江市「熊野大社」である。
と言うことで第17代大名持ち「山崎タラシ王」、少彦「野見彦」で古代出雲王朝は終わりとなる。
※田和山神殿跡は 現在公園として 整備され、誰でも見学できます。
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白兎神社と兎神について
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稲葉の国伏野にしばらく滞在した菟上王は豊王国宇佐家の御子だったから 宇佐の兎神(月神)を信仰していた。
月の中に兎がいるので 「月読みの神」を兎神とも称した。
うさぎ神宮の「ぎ」を省略した発音が「宇佐神宮」になったと宇佐神宮社家の伝承にあるそうです。
そして宇佐王家の人は名前に菟の字を入れるのが 仕来りでした。菟上王(うのかみおう)がその例です。
豊国軍の一部は伏野の占領軍として残り、そこに宇佐社を建てた。祭神は月神(兎神)と豊玉姫である。
※イ二エ王が都萬王国の西都原で病死した後 東征軍最高指揮者として頑張った宇佐豊玉姫も東征途中安芸の宮島で
病気になりその地で病死します。遺体は宇佐に運ばれて宇佐神宮に祀られます。
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一方もともと 稲葉の隣、伯耆の国の中山に兎の話があった。川の流木に乗った兎が海に流された話です。
また物部東征軍が大和へ進撃し 大和から追い出した大和朝廷は 磯城王朝で櫻井市和邇(わに)にありました。
そして古代出雲王朝では 龍蛇神信仰が盛んでしたが、ワニ(鮫のこと)も恐れられて 神として崇められていました。
稲葉の伏野に住んだ豊国系の人々は 和邇王国や出雲人が尊敬するワニに対抗心を燃やして、伯耆の民話を
作り変えて ワニが兎に害を与える悪者にして、かつ兎神が大国主より偉いという話にしました。
当時の和国には 白い兎は存在しませんでしたが「稲葉の白素(はだか)ウサギ」の話に作り変えました。
そして宇佐社を白兎神社に名前を変えました。
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記紀の作り話では、大国主は兄達と八上姫にプロポーズしにこの地を通りかかったという。そして悪い鮫に皮を
剥かれたウサギを助け、そのウサギは 大国主に「兄達は八上姫を得ることは出来ないだろう。兄たちの荷物を
背負った お前が比売を得るであろう。」と宣ったという。
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紀元前2世紀末の 当時和国唯一最大の王国 出雲王国の第八代主王 八千矛王には兄は居ません。
まして当時の王が人の荷物を背負って旅するなどありえません。そして一地方豪族の娘「稲葉の八上姫」に
わざわざプロポーズには来ません。王には何人も后が居て 地方豪族がこぞって娘を王に差し出している
状況です。稲葉のハダカウサギの話は 正に出雲に敵愾心を抱いていた奴らが作った話だと直ぐ分かります。
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現在の白兎神社
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白兎神社一の鳥居です。
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鳥居を潜ると長い石段を登ります。
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石段の左右には ウサギの置物があります。
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石段の上の小屋には砂像があります。
大国主が八上姫にプロポーズしているように見えてそれをウサギが見守っています。
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境内のイチョウは色づき始めています。ハート型の絵馬は恋愛成就の祈りのようです。読んではいませんが。
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立派な注連縄の下がる拝殿です。立派な注連縄は出雲族のまねをしています。豊国人は兎神を信仰しているくせに
出雲人の信仰する龍蛇神を真似しています。この注連縄は 子供を孕んだおめでたい大蛇を現しています。
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この拝殿の屋根の反りは宇佐八幡宮の屋根の反りに似せたといわれています。
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本殿と千木は 出雲式の竪削ぎと大社造に見えます。それもそのはず 宇佐王家はもともと出雲王朝第六代
主王で国引き王の臣津野の次男吾田片隅が九州へ移住して始まった宗像家が元になっていますから。
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境内にある「不増不減」の池です。皮を剥かれたウサギがこの池で体を洗ったそうです。
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本殿の柱の基礎は菊の花の紋章が掘り込んであります。何故かわかりませんが。
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神社の由緒看板です。古事記の神話の話しかかいてません。菟上王も宇佐豊玉姫も全く出てきません。
九州物部王家のことも 東征で出雲王国を倒したことも そら書けませんわなあ。
大和王朝は天から降りてきた人に始まる 万世一系らしいから、そんなこと書いたらたちまち死罪です。
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本殿に付いている神紋は遠いので良く見えませんが 亀甲剣花菱のようです。
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こちらは 今の出雲大社(大国主こと八千矛王を祀る)や出雲市阿須岐神社(徐福やその部下穂日
ー今の出雲大社宮司の祖先たちに幽閉殺害された八千矛王の御子味鋤高彦を祀る)の神紋で二重亀甲剣花菱紋です。
出雲王族だけが使用できる紋を なんとウサギが使っています。戦争に勝てば豊国人もやりたい放題ですね。
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白兎神社一の鳥居の前には なんと「恋人達の聖地」の看板と橡が。白兎神社もなかなか客集めの商売上手だこと。
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